山河ノスタルジア

 オフィス北野とクレジットされていきなり踊り始めるから、これは『座頭市』をなぞってるのかと思いきや、われわれにとっちゃどうってことはないこにペット・ショップ・ボーイズの楽曲で最後に泣かされてしまうのだからこのシーンはバカにできない。
 最初は、二人の男を前にどっちを選ぶか、ありがちで、見てれば彼女は合理的な選択をしているのだが、おじさんはまた違ったことを考えてしまう。そこから、ある種のリレーがはじまる。タオ(ここでは波と形容されるけど、オヤジが老師と言われるとつい道と考えてしまうが、これは考えすぎが)は、自分が見限ったもう一人のボーイフレンドが命を削るような生活をして、そのかみさんに借金の依頼を受ける。他方、自分はオヤジが死んで離婚した夫の元にいる息子を呼び出すのだが、もう息子は自分の手元にいるべきではないと、長い別れの旅の末に息子を見送る。いずれもかどうかはともかく、必ずしも感情に従っているとはいいがたい、でも合理的な選択出るが、その結末はといえば。息子は、父とともに海外へ行くが、なにか満たされない気持ちにふりまわされ、母に重ねられるような大学の教師にであう。
 合理的な選択が不幸を招くというのはある意味近代社会の宿命ですな。しかも、途中での飛行機の墜落、それにあわせたようなヘリコプターでの旋回、映像的にも見事と言うしかない。結局、それぞれの者がそれぞれの者のことを思いつつそれを知られることなく離れていく。そのときキーになるのは鍵。いつでもそこに戻ってこれるよと。しかし、その鍵はけっして開けられることがない。ただ、離別の痛みとあわせて感じられる愛はそれだけいっそう深みを増して響いてくる。あの餃子のシーンとかいいよね。広東省にも餃子があるんですね。
 ただ、今の日本を生きる私としてはこうも言っておきたい。こんな痛みを感じられるのはまだうらやましのかもしれない。なぜなら、もう私たちには鍵をあずけらて戻るべき家すら失われているかもしれないのだから。実は、私がショックを受けたのは家の鍵を渡されることではなく、この家を売りたいと言われたことたった。
 







座頭市ではありません。