社会的なものを組み直す

第I部 社会的世界をめぐる論争を展開させるには

第一の不確定性の発生源 グループではなくグループ形成だけがある

いずれかのグループに属するということは、現在進行形のプロセスであり、そのプロセスを構成するのは、不確定で、脆弱で、議論を呼び、絶えず移り変わる紐帯である(p54)。

社会学者のとってまず問題になるのは、ひとつの特権的なグルーピングを決めることであるようだ(p56)。

私たちが学ぶべき第一の不確定性の発生源は、社会的なまとまりを作り上げているといえる有意なグループはどこにも存在せず、議論の余地のない出発点として利用できる確立した構成要素も存在しないというものだ(p 56−7)。

グループ形成をめぐるいかなる論争にもーもちろんアカデミックな論争も含めーいくつかの特徴が例外なく見られることはずっと容易に認めることができる。その特徴とは、①グループは代弁者を必要とすること、②反対グループが配置されること、③グループの境界を強化するために新たな資源が持ち出されること、④非常に専門的な道具一式を有する専門家が動員されることである(p61)。

ANTに言わせれば、グループを作り続けることを止めれば、グループは無くなってしまう(p68)。

媒介子対中間項

中間項は、私の用語法では、意味や力をそのまま移送するものである。つまり、インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる。実際のところ。中間項は、ブラックボックスと捉えられるだけでなく、たとえその内部が多くのパーツでできているとしても、ひとつのものとして扱われる。他方で、媒介子はきっかり一つのものとみなすことはできない。媒介子は、ひとつのものとされるかもしれないし、物の数に入らなくなるかもしれないし、かなりの数のものとされるかもしれないし、無数のものとされるかもしれない。インプットからアウトプットをうまく予測することを決してできない。その都度、媒介子の特性が考慮されなければならない。媒介子は、自らが運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする(p74)。

第二の不確定性の発生源 行為はアクターを超えてなされる

行為は自明なものではないということだ。行為は、意識の完全な制御化でなされるものではない。むしろ、行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある(p84)。

行為は他の人びとに取り込まれており、人びとのあいだで広く共有されているのだ。行為は、不可思議なかたちで行われると同時に、他の人びとに分散されている(p86)。

①エージェンシーは報告によって定義される、②エージェンシーには何らかの姿形が与えられる、③エージェンシーは他の競合するエージェンシーと対置される、④エージェンシーは何かしらの明確な理論を伴う(p100−101)、

第三の不確定性の発生源 モノにもエージェンシーがある

アクターとエージェンシーの論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える物事はすべてアクターであるーあるいは、まだ形象化されていなければ、アクタンである(p134)。

モノは、まさに人間と結びつくという性質ゆえに、媒介子の地位から中間項の地位へとたちまち変転し、どんなに中身が複合的であろうとも、一かゼロのどちらかでしかなくなる。したがって、〈モノが話をする〉ようにするために、つまり、モノに、自分自身の記述を生み出させ、他のものー人間や非人間ーにさせていることのスクリプトを生み出させるために、具体的な策を練らなければならない(p150)。

第四の不確定性の源泉 〈厳然たる事実〉対〈議論を呼ぶ事実〉

社会も社会的領域も社会的紐帯もないが、たどることが可能な連関を生み出すであろう媒介子のあいだでの翻訳がある(p204)。

〈厳然たる事実〉からなる単数系の世界から、〈議論を呼ぶ事実〉からなる複数形の世界に移行する、つまりは、科学から活動中の科学に移行する場合には、「同一の」自然に対する複数の「象徴的」表象に付きものの実在性への無頓着にも、「自然」の概念による早すぎる単一かにも甘んじるわけにはいかなくなるのだ。この世界で時を同じくして作用しているエージェンシーのごたまぜに、数々の科学の世界を持ち込むことで、私たちは形而上学から存在論へと、もう一つのルビコン川を渡ったのである(p220)。

第五の不確実性の発生源 失敗と隣り合わせの報告を書きとめる

ネットワークの語で私が指しているのは、各々の参与子が一人前の媒介子として扱われる行為/作用の連鎖である。ごく簡単に言えば、ANTによる上手い報告とは、すべてのアクターが何かをしており、ただ座しているわけではない物語、記述、命題である。そうしたテクストに登場する各々のアクターは、効果や影響を変換せずに移送するのではなく、分岐点になったり、出来事になったり、新たな翻訳の起源になったりする(p243)。

第II部 連関をたどり直せるようにする

第一の手立て グローバルなものをローカル化する

ローカルな場は、別な場所、時間、エージェンシーを介して何かをするように作られているのだから、私たちは、あるローカルな相互作用から、別の場所、時間、エージェンシーに至る道を切れ目なく結びつけなければならないということだ。ーーー。ローカルな場をネットワーク状に展開できるとすれば、それは、二つの場の距離を変換や翻訳で埋める場合であり、つまりは、中間項ではなく一人前の媒介子でしっかりと突き詰める場合である。そうすれば、一足跳びすることなく、場と場を結ぶアクターの長い連鎖が可視化されるだろう(p333)。

マクロという形容詞が表しているのは、等しくローカルな場で、等しく「ミクロな」別の場である。つまり、「マクロな」場とは、種差的な痕跡をともなう何らかなメディアを介して他の多くの場と結びつけられている場のことなのである。他の場所より大きいと言える場所はないが、ほかのばしょよりもずっと多くの場所と確実に結びついていることで利得を得ていると言える場所はある(p339)。

研究のどの段階でも、アクターを、ミクロとマクロのどちらかに位置づけるのではなく、どんなサイズのアクターについても、ローカルでありかつい他と結びついた場で置き換えると決めれば、アクター-ネットワークをたどることができる。アクターもネットワークも欠かせないものであり、それゆえにハイフンが付く。世界を構成する歴然たる要素のすべてが生まれ出ているのが、第一のパーツ(アクター)が表している狭い空間である。そして、どの移送手段、どの痕跡、どの足跡、どの情報によって、世界が前者の空間に持ち込まれ、そして、そこで変換された後に、外部に送り返されているのかが第二のパーツ(ネットワーク)によって説明できる。したがって、ハイフンでつながれた「ネットワーク」は、コンテクストという隠れた存在を表しているのではなく、アクターを一つに結びつけるものを指しているのだ。ハイフン付きのネットワークの概念は、コンテクストのようにあまりに狭く平板な記述に厚みをもたせる別次元のものではなく、あらゆる関係をフラットなままにしておき、言わば「取引費用」の全額を支払えるようにしてくれるものである(p346)。

スケールはアクター自身が打ち立てるものである(p356)。私が考えているのは、フレーミング(枠づけ)そのものを非常に注意深く研究することである。そうすることで、フレーミングを、自動的に得られる資源ではなく魅力的な新たなトピックにすることができる(p359−60)。

 オリゴプティコンとパノラマ
第二の手立て ローカルなものを分散させ直す
対面的な相互作用を、そこに向かって集まる数々のエージェンシーの終着点として捉えるべきである。「根底をなす隠れた構造」がないからといって、特定可能な回路を循環する構造化のテンプレートが存在しないことにはならない。そして、この回路は、諸々の技術によって難なく物質的に実現されている(p376)
グルーバルやローカルといった見せかけの場が、循環する存在でできていることが示されたとすれば、主体、正当化、無意識、人格もまた同様に循環していると考えてもよいのではないか(p396)。主体に属するものは、すべて外から与えられてきたものである(p408)。
外部との結びつきを増やすことによってこそ、「内部」がどのようにしつらえられているのかが把握できる可能性が生まれる(p413)。外からやって来るものを媒介子として扱い、続くエージェントに媒介子として振る舞う機会を与えるものとして扱えば、うちと外によって構成される景色が一変してしまうだろう(p414)。
つまり、アクター-ネットワークは、自らに流れ込んでは流れ出ていき巨大な星型の紋様を織りなす数々の媒介子によって行為/作用させられるものである。アクター-ネットワークhs、多くの紐帯がなければ存在しない。つまり、分かちがたい結合が第一であり、アクターはその次である(p416)。
第三の手立て 複数の場を結びつける
企画や計測基準によって、相対性の問題、つまりは、私たちは何らかの普遍的な合意を得ることができるのかという問題は実質的に解決する(p434)。科学的な計測基準と規格化の例を、普遍的なものの循環に目を向けるためのベンチマークにすることで、そこまで追跡可能ではなく物質化もされてはいない循環についても同様に扱えるようになる。つまり、たいていの場合、エージェント間の調整は、準規格の拡散を通して成し遂げられているのだ(p436)。準規格の循環によって、不特定多数の孤絶したエージェンシーが、徐々にレイヤーごとに比較可能になり共約可能になっていく(p437−8)。社会的なものの社会学によって、社会的なものの一部がたどれるようになり。貯蔵され安定化されていくのである(p438)。収集型の言表は、実際にあらゆるかたちで社会的なものを遂行的に形成している(p440)。
媒介子がどんどん増えていくことで、数ある存在のなかでもとりわけ準客体、準主体とも呼べるものが生み出される。---、モノが社会的なまとまりを中心に回転しているのではない。さまざまな社会的なまとまりが、数々な分かち難い結合から生まれているのであり、---。物事、、準客体、分かち難い結合が社会的世界の真の中心なのであって、エージェント、人、構成員、参与者ではない(p451)
プラズマ
 

 

 

アクターネットワーク理論入門

循環する指示

 以上の概観からわかるように、科学者たちがアマゾンの土壌に関する知識を生み出すとき、彼らは、可逆的である参照の連鎖のなかで土壌を物質から形式(記号)へ変換することによって行っている。ちなみに、ここでの変換は、上方推移(物質から記号への変換)と下方推移(記号から物質への推移)と呼ばれている。

 しかも、上方推移によって、物質性、特殊性,ローカル性などが次々と失われる一方で、形式性、互換性,相対的普遍性が得られ、厳然たる「不変の可動物」となり流通する。科学とは、外在する真実を変形させることなく転写・転置させるものではない。諸々の形式変換による転置こそが、科学の営みなのである。ちなみに、こうした変換によって、異なる物質=記号がつながることをANTではとくに「翻訳」と呼んでいる(p54)。

中間項と媒介子

中間項とは、外からやってきた意味や力(エージェンシー)を歪めることなく移送するものであり、そこに投入されるもの(「原因」)がわかれば、そこから発せられるもの(「結果」)がわかる。言い換えれば、単体のブラックボックスであり、インプットされる「原因」だけでアウトプットの説明がついてしまう。いわば、「厳然たる事実」の住人である(p55)。

媒介子は、故障した飛行機の部品のように移送する意味やエージェンシーを変換(翻訳)してしまうものであり、単一の対象として扱うことはできない。こうした媒介子が連関している場合、ある出来事をいずれかのアクターみ還元することはできない(非還元の原則)。モノもまた、そうした「議論を呼ぶ事実」であり、中間項は例外的な様態である(p56)。

 

 

ラボラトリー・ライフ

つまり、科学者自身が「社会的」と「専門的」という非常に明確な区別をもとに仕事をしているのだ(p14)。

「ラボは文書への描出システムである」。

参与者たちが一つの一つの客観的存在として描写している人工的な実在は、実は描写装置の使用を通して構築されているのである(p 53)。

今や観察者は、以前は論文が混沌として入り乱れているように見えていたものを、多数の言明を含んだネットワークという観点から観察できるようになった。ここでいうネットワーク自体が、言明について言及したり、言明を結びつけたりする大量の操作から成っている。こうした見方に立つならば、何らかの見解の歴史は、さまざまな操作の結果としてその見解がある言明タイプから別の言明タイプへと変換され、その事実性のステータスが徐々に減殺あるいは強化されてきた過程として記録することができる(p73~74)。

「アイデアの思いつき」とは、複雑な物質的状況の要約的表現である。

個人のアイデアや思考プロセスというものは、物質的かつ集合的な事情の一切合切を、特定の形で発表したり単純化したりした結果として生じるものなのだ(p160)。

構築主義実在論かということについて

実在と局域的な状況の区別というものは、言明が事実として安定化したその後でしか存在しないものなのだ。

 換言すれば、言明が事実になる理由を説明するのに「実在」を利用することはできないということである。というのも実在の効果はそれが事実になった後になってはじめて得られるからだ。その実在の効果が「客観性」であろうと「外在性」であろうと同じことである。論争が解決したからこそ言明は実体と実体についての言明に分裂するのであって、論争の解決に先立って分裂するなどということはない(p171-172)

 

 

 

ブルーノ・ラトゥールの取説

 私は先に『アクターネットワーク理論入門』を読んのだが、『ブルーノ・ラトゥールの取説』の方が分かりやすいし面白いから、まず『取説』を先に読んだ方がよいだろう。モダニズム(対応説)/ポストモダニズム構築主義)という二項対立を回避する形でノンモダニズム(ANT)の議論が、テクノロジー、科学、社会、近代、私たちについて展開される。アクターネットワークについても68頁あたりからの人間と銃の例がわかりやすい。

仲介と媒介

二つのエージェントが互いに互いの行為を変容させる媒介項として働くとき、それぞれが元々持っていた目的が変化する。媒介項への入力に対する出力は前もって規定できず、媒介項との関わりは自らを予想できない仕方で変容させるのである(p62)。

諸アクターの動きのよってネットワークが生み出されると同時に、各アクターの性質や形態はネットワークの働きによって変化し、変化したアクターはさらに新たな関係を取り結びネットワークを変化させていく。以上のように定義されるアクターネットワークは原理的に不安定なものである。だが、各アクターの行為を通じてネットワークが相対的に安定し、一定の持続性を持つようになると、アクターネットワークは確固たる世界の有り様を生み出す。媒介と翻訳の過程を通じて種々のアクターが緊密に結びつけられ、各アクターが共に向かえるような新たな目的が構成され、特定のアクターが他のアクターが行動する際の必須の通過点となり、アクター間の隊列が整えられるようになる。この段階までくると、諸アクターの関係性の全体が一つのアクターとして他のアクターと関係を結ぶことが可能になり、内部の諸アクターの働きは他の諸アクターに直接影響を及ぼさなくなる。こうしたブラックボックス化と呼ばれる契機に至って、媒介項(未規定の入出力)は一時的に仲介項(一義的な入出力)に変換される(p64−5)。

人間と非人間を対称的に扱うとは、両者の本質とされてきた「志向性」や「法則性」を、アクターネットワークから派生する二次的要素として扱うということである。人間から主体性を、非人間から客体生を剥奪することによって、両者を媒介項同士の諸関係(=アクターネットワーク)のなかに位置づけることによって可能になる。主体性や客体性は、ネットワークが多数の媒介項を少数の仲介項に変換するように動くことで生み出される、暫定的な効果として捉え直される(p146)。

 

 

トマス・アクィナスの政治思想

中世の政治思想

中世の政治思想 (平凡社ライブラリー)

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