社会的行為の構造 5 M.ウェーバー論(II)

第17章

「以上の議論を閉じるに当たって、この領域の問題へのアプローチといいまたその取り扱いといい、デュルケームとウェーバーとの間には驚くべき密接な対応関係があるという点を指摘するのは興味深いことである。もちろん両者の間には違いがある。ウェーバーは社会動態の問題にその学問的関心を傾注していたし、デュルケームはそうした問題に全く関心を示さなかった。こうした基本的な概念枠組の相違にも関わらず、両者が達した結論はほとんど同一のものであった。それは少なくとも二つの戦略的観点において認められる。その一つは、規範との関連で行為の動機を道徳的と非道徳的の二つに分けている点、もう一つは規範それ自体の性質(ウェーバーの正当性、デュルケームの道徳的権威)と、それを「表現する」(ウェーバーのカリスマ、デュルケームの聖)より広い要素とを区別しているという点である。両者の思想的出発点が、ウェーバーは歴史的理想主義から、またデュルケームは高度に自覚的な実証主義からというように互いに対極に位置していたことを考えればこうした両者の対応関係はまことに驚くべきことである。その上、両者が相互に影響しあったという痕跡はどこにも見られない。それぞれの著作のなかでお互いに参照を求め合っているような箇所はどこにもない。したがってこうした一致は、同じ部類の事実を正しく解釈したことに由来すると説明することができよう」。「最後に、こうした両者の対応関係は社会学主義の定理それ自体のみならず、その言明の方法にまで及んでいる」(p,48-9)。

 

「総じてウェーバーの立場は明白かつ根本的に行為の主意主義的理論のそれであって、実証主義的でも理想主義的でもないということである。このことがあらゆる本質的な点において事実であるということが明らかにされた。

 まず第一に、ウェーバーの資本主義に関する議論、また資本主義とピューリタニズムの関連づけについての議論、さらにもっと一般的には宗教理念の社会的役割に関する議論、これらいずれもがこうした地平に立ってはじめて理解することができる。理念とそれに結びついた究極的価値、この二つのものが果たす役割がウェーバーの思考にとって根本的なものであった。しかし同じように根本的であったのは、こうした要素は決して自足的なものではなく、他の独立した諸要因と複雑な相互関係を形成しているという点である。遺伝や環境要因の独立性を欠落させたり、あるいは究極的価値や理念、異なった種類の規範といったものを相互に絡み合わせないでは、またそれらを遺伝や環境要因といったものに複雑に関連させないでは到底われわれが知っているような姿で、あるいはウェーバーが描いたような仕方で具体的な社会生活や行為を考えることなどできやしない。

 第二に、ウェーバーの方法論について議論するなかで、彼の経験的作品をこのように解釈することが適切であるということ、この点が完全に裏書きされた。彼の主要な方法論的関心は、「自然」や意味の無時間的な複合体に関する側面ではなく、人間の行為というものを理解するために有意味となる科学的論理の側面に注がれている。さらに一層立ち入って、ウェーバーは次の点をも立証してみせた。すなわち、客観的な科学的知識という観念はその経験的主題が何であれ、行為の規範的側面と深く結びついているばかりでなく、その規範実現の障害となる現実とも固く結びついているという点である。科学それ自体は、価値関係という形で価値要素との関わりをもたないでは方法論的に根拠づけようのないものである。この関連なくしては、「意識の流れ」とは峻別される有意味なデータの確定的選択、したがってまた客観的知識の確定的選択は不可能になる。科学という観念自体がまさに行為を意味しているのである。さらに、こうした行為と科学との基本的な結びつきがあればこそ、科学的に検証することのできる内在的な目的-手段関係という意味での合理性の規範というがいったい行為のなかでいかなる位置を占めるのか、これを本研究の出発点としえたのでもあった。つまり、科学が存在するためには行為が存在していなければならない。そうしてもし行為の科学が存在すべきものならば、それはこうした意味における内在的な合理性という規範を含み込んだものでなければならない。実際行為の科学は、この点を中心にして旋回するに違いない」(p,68-9)。

「理念系はその主要な特徴として規範的な性格を持っているという点である」。「観察者は、行為者の行為を拘束していると思われる規範を一部手掛かりにしてその行為を理解するのである」(p,70)。

第三に、「少なくとも本研究が関わる範囲において、ウェーバー自身の図式のなかに行為体系の構造に関する完全な説明を見出すことができるという点である」(p,71)。

 

第4部 結論

第18章 経験的に検証された結論

「このようにしてその輪郭を描き出した行為の一般化した構造的要素は、三つの比較的よく境界づけられた集団に分けることができるように思われる。第一が遺伝と環境である。この要素は主観的には行為の究極的手段および条件として、また無知と「紛れもない」誤謬の源泉として立ち現れる。こうした要素は、主観に準拠することのない範疇を用いて科学的に理解することができる。こういった要素は、科学にとって与件を構成する」(p,121)。

「第二に、内在的な目的−手段連鎖の中間部門に包摂されるグループがある」。「この思想全体に共通する行為の合理性に関する一般概念によって定式化されているのが、技術的要素である。利害の調和という公準に依拠しts功利主義理論がその社会的平面において定式化したもの、それが経済的要素であった」。「最後に、強制力という要素はホッブズとともに功利主義理論の地平において古典的な定式化を施され、それ以降、利害の自然調和の公準が破綻するたびに多様な形態をとりながらその形姿を表した」(p,122)。

「三番目には、功利主義におけるランダムな目的といったものに還元できない限りにおいて、またしれが統合されたものである限りにおいてではあるが、究極的価値体系の周囲に集まっている要素群がある。それは既に示したように実証主義の伝統のなかから出現したものであり、その創発的な過程は実証主義の伝統が崩壊し、それが主意主義的な行為理論へと移行していく過程をも意味していた」(p,122)。

最後に、「それが「努力」と呼ばれる要素であって」(p,123)。

 

「第一の命題。ここで取り上げた四人の偉大な著作家たちの仕事を分析するなかで次第にその輪郭が浮かび上がってきたのは、すべてその本質的な点において同一の社会理論の体系、すなわち行為の主意主義的理論と呼ばれるものの構造的側面であったという命題」(p,123)。

「第二の命題。ここで取り上げた著作家たちに共通しているこの理論的範疇の一般化された体系を一つの全体として見た場合それは彼らが依拠してきた伝統からの離反を意味するにとどまらず、新たな理論展開を意味するものであったという命題」(p,124)。

「第三の命題。この理論体系の発展は、いずれの事例においてもそれぞれの著作家によって定式化された主要な経験的一般化と最も密接に関連しているという命題」(p,125)。

「第四の命題。行為の主意主義的理論が生み出されるための一つの主要な要因は、社会生活の経験的事実に関する正確な観察、とりわけこうした著作家たちがその論敵とみなした諸理論の提唱者によってなされた観察を是正あるいは補足することのうちにあるという命題」(p,126)。

「第五の命題。以上四つの命題に関する結論を一緒にしてみると、それが(特殊な事例に関するものではあるが)、序章で述べておいた科学的理論の発展に関する理論の経験的検証になっているという命題」(p,131)。

 

第19章 暫定的な方法論的含意

「本研究全体を通じて示唆しておいた認識論的立場は分析的リアリズムという立場である」(p,138)。

 

「その主要な特徴を備えた行為図式が用いられる水準には記述的と分析的という二つのレベルがある。理論が適用される具体的現象はすべて、その具体的意味において行為の体系として記述することができる。そしてこうした体系はいつでも諸部分あるいはより小さな下位単位に分解することができる。もしこの平面で十分な分解ないしは分析作業が行われるならば、最終的には単位行為と呼ばれるものに到達するだろう。これが、具体的行為体系の一部として意味を持つ限りでの行為体系の「最小」単位である。

 この単位行為は行為の下位体系として考えられる究極的な単位ではあるが、行為理論の観点からすれば分解不可能な実体ではなく、依然として複合的なものである。それは、行為の「具体的」諸要素から成り立っていると考えることができる。具体的な目的、具体的な条件、具体的な手段、そして目的に対する手段の選択を制御している一つあるいはそれ以上の規範ーこういった完全な単位行為を作り上げるには、こうしたいくつもの具体的諸要素が必要になる」(p,139)。

「この準拠枠の主要な特徴がいかなるものかについて、その輪郭を述べておくことにしよう」。「まず第一に、構造的要素には、目的、手段、条件、そして規範という最小の区別がある。これら四つのすべてを特定化することのできないような行為の記述は意味がない」(p,140)。「第二に、これら諸要素間の関係づけのなかに行為の規範的志向。つまり目的論的性格が含意されている。行為はいつでも規範的と条件的という二つの次元を異にする要素の緊張関係のなかに置かれている」(p,141)「第三に、本来この準拠枠には時間的要素が含まれている。行為は時間を含んだ過程である。行為の目的論的性格に対応して、規範的要素と非規範的要素との間には時間軸が関わっている。目的の概念には将来への言及、つまり予期されてはいるが行為者の介在なしには存在しえないだろう事態が含まれている」(p,141)。「それは行為現象を記述し考察するために必須不可欠な論理的枠組みである」(p,142)。

 

「具体的現象をその単位や部分に分解するという場合、その科学的に有効な限界は準拠枠との関わりにおいて与えられる。行為理論においては、行為あるいは行為の具体的要素としてそれを考えることができるかどうか、ここにその限界が設けられている。この可能性を判断する主要な規準の一つは、主観的観点を援用することができるかどうかという点にある」(p,150)。

「具体的現象をこうした意味での単位や部分に分解することは抽象化の過程であるかどうか、と問うことができよう。当の現象が有機的なものであるかぎりはそう言ってよい」(p,150)。「抽象化というのは、部分への分解が進むに従ってより複雑な体系の創発的属性が次々と排除されていくということである」(p,151)。

「こうした比較という方法なしに、分析的要素の値が独立して変化するということを経験的に立証することはできない」(p,156)。

社会関係、パーソナリティ、集団

 

「行為のいかなる具体的体系であろうと、その変化の過程はー内在的な目的−手段関係によって定式化された行為の要素で説明できるものであるかぎりー体系内の行為者を拘束していると見なされる合理的規範の実現という方向に進んでいくことができる」(p,168)。

 

「まず第一に、科学的理論が外的実在に適用可能であるということで含意されているのは、こうした意味での経験的実在は事実的秩序に属しているということである。またその秩序は、ある意味で人間の論理的秩序にも属するものでなければならない」(p,171)。

「しかし第二に、科学的理論そのものは経験的な実在ではない。それは、経験的現象あるいはその一定の側面を理念的に表象したものである。したがってそれは、この事実に由来する限界をもっている」(p,171)。

「それは構成された実体であり、準拠枠によって規定された構成物である。したがって具体的実体を記述するという実在主義はこうした記述の選択性という要素によって緩和されざるをえない。第二に、こうした意味での記述は具体的体系の全体に対してではなく、その文脈から切り離された部分あるいは単位に対して適用されるものである以上、体系が有機的で創発的な属性をもつに従ってさらに抽象化の要素が加わることになる」。「最後に、分析的要素という概念のなかに抽象化の要素が含まれている」(p,172)。

「その体系が説明できるのは、ある準拠枠のなかに存在する重要な事実のほんの一部にすぎない。定数化された他の部分を説明しようとすれば、別の分析体系を用いなければならない。しかしその準拠枠によって重要とされた事実は、決して具体的現象に関して知りうる事実のすべてではない。その時々の科学的知識の下でではあるが、しかし可能なかぎり説明するためには、あらゆる既知の準拠枠を適切な仕方で総動員し、すべてのデータをある体系の分析概念の下に包摂し、そうしてそれぞれの仕方で分析した結果を相互に体系的に関連づけることが必要である」。「多様な準拠枠を用いた異なった水準における分析結果は、互いに統合されて一体的な知識を形成し、全体として既に述べたような実在論的な含みを持つようになるということである」(p,173)。

 

「歴史的科学と分析的科学の区別」。「歴史的科学の目的は、ある部類の歴史的個体あるいはその一部をできるかぎり完全に理解することにある」(p,179)。「他方には、分析的科学が存在する。その目的は、一般的分析理論の論理的に首尾一貫した体系を構築することにある」(p,180)。

「分析的な地平では理論体系は大きく三つの部類に分類することができる。それらは、自然、行為、そして文化の体系ということができる。さらに、その区別は理論体系のそれであって決して具体的な歴史的個体に関する区別ではないことを銘記しておく必要がある。最初の二つのものだけが通常の意味での経験的な科学理論の体系である。三番目のものは特殊な位置を占めている」(p,182)。「文化体系は、非空間的で無時間的という二つの点で他の諸体系から区別される」(p,183)。「一方において、文化体系は行為の過程の産物という形で検討することができる。他方それは、たとえば科学や他の「理念」のように行為を条件づけている要素と考えることもできる」(p,184)。

経済学、政治学

 

社会学「共通価値による統合という属性によって理解することのできる社会的行為体系に関する分析的理論の展開を目指している科学である」(p,191)、心理学「パーソナリティの遺伝的基盤との関わりで導出することのできる行為体系の可変的な属性を対象とする分析的科学」(p,192)、技術学、歴史学

 

 

 

 

 

 

 

 

社会的行為の構造 4 M.ウェーバー論(I)

第16章

「というのはその批判は、理想主義の伝統が作り出した自然主義と社会科学との論理的文脈における裂け目を架橋する方向へ突き進むものであったからである。彼は、いずれの科学も、一般的な理論的諸概念の体系を含まねばならず、もしそれを欠けば、論理的証明に接近することは全く不可能なものになってしまうと結論づけている。しかしどちらの場合にも、この諸概念の体系は、生の経験の具体的な実在全体を文字通り表現するものと考えることはできない。それゆえ、彼の批判的立場は、自然科学の方法論に対するまさに反応の所産であった。ここで、実証主義を基盤とする方法論との間にはっきりした収斂が生じ、その限りで、一つの共通の論理的立場が形成されたことに注意を喚起することは興味深いことである」(p,182)。

「だから、これらあらゆる点において、個体性と一一般性という役割に絡めて、自然科学と社会科学を原理的に峻別するという根拠はないように思われる。量的な程度の相違はあるにしても、それはこのような区別を正当化するほどのものではない」。

 「科学方法論においては、価値関係の原則が相対主義という要素を説明するのに役立つけれども、それは、二つの科学グループの一方にのみ適用されるものではなく両方に適用可能な原則なのである」。

 「諸科学の分類についていえば、ウェーバーが展開した方法的議論は、実質的には彼が示唆していた路線に沿って、その関心の主な方向という点から二つのグループへと基本的に区分されうるということ、むしろこの点を示しているように思われる。すなわち、一方では、一つあるいは一部類の歴史的個体の具体的個体性に主要な関心を払うばあいと、他方では、抽象的な一般的原理や法則の体系に関心を払うばあいとの二つである。しかしこの区分は、自然科学と社会文化科学という区分に一致するものではない。むしろ、それぞれの分野においてその両方の場合があるのである」(p,193-4)。

 

「実際、理念系を体系的に分析することは、それと同時に、少なくとも暗黙のうちに、より一般的な理論体系を展開することをなくしては、果たしえない。なぜなら、分類する上での諸類型間の関係は、このような一般化された理論体系を内包するような諸範疇を使うことによって初めて記述することができるからである」。

 「しかし、このより一般化された理論体系化には、すでに見たように、可能な概念化かとして二つの異なった種類が含まれているのである。そのうちの一つに本研究は主に関心を寄せてきたが、それはいかなる社会的行為の体系にも適用可能であるような構造的諸範疇の一般化された体系である。もう一つのものが、諸変数の体系である」。

 「ウェーバーが使う意味での理念系は、常に社会体系の一般化された単位なのである。しかし、それは、我々の一般化された構造体系のどの範疇よりも、特定的かつ具体的な性格を持っているのが普通である」(p,226)。

「より一般的な分析的概念の代わりに理念系概念を用いるということは、理念系が一般的分析概念の示す値い相互の関係の結びつきを硬直的なものにしているために、経験的解釈に偏向をもたらす主要な源泉の一つとなっているということである」(p,227-8)。

「理念系に対応する特殊的なものも含めてあらゆる具体的な現象は、分析的諸要素の値いをある特定の仕方で組み合わせることによってはじめて記述可能となる。理念系は、普遍的なものであるから、特定の値いの組み合わせを含んではいないが、分析的諸要素の値相互間の一組の固定された関係を含んでいる。しかしながら、これらの諸要素はしばしば、その諸類型の定義によって許容される変域を超えて独立に変化しうるものである。だから、一般的概念構成を理念型にのみ限定することは、方法的原子論をもたらすようなあの硬直性という要素を導入することになる。このように理念型が実体化されると、そこに帰結するものは歴史の「モザイク」理論か、あるいは硬直した進化論的図式である。ここでこれらの両者に対する唯一の防御策といえば、この類型概念の虚構的性格を主張することである」(p,230)。

 

「しかしこのような見解は、一般化の種々のレヴェルを区別し損なったことによる誤解であるように思われる。それは、一般概念を常に類型概念であると考えることから生じる。一般概念がより広くなればなるほどーつまり、それが含みうる個々の事例が多くなればなるほどーその内容は抽象的になり、より空虚なものになる。したがって、この方向で一般化を無際限に推し進めることは、実在的現象の具体的個体性との接触を失った、ますます抽象的な概念へ導くことになるだろう。これは原子化である。

 しかし、この議論では、一般概念の他の二つの類型は、単純に同じ方向に向かって類型−部分概念を超えて抽象化が一層推し進められたものでは必ずしもなく、それらは異なった意味で抽象的なのだということが見落とされているのである。ここで行われるのは、具体的現象を要素に分解し、その諸要素を、一般体系化する方向である。抽象化は、異なったレヴェルにあるのである。つまり、要素は部分である必要はないのである。さらに、所与の具体的現象を、ある特定の観点から観察する時、その現象をそこなうことなく分析的抽象化を推し進めうる範囲には、明確な限界というものがある」(p.248-9)。

 

 

 

 

 

社会的行為の構造 3 デュルケーム論

第8章 初期の経験的研究

『社会分業論』における(集合意識に支えられた)機械的連帯から有機的連帯への転換は機能分化によって生み出されるにしても、契約の非契約的要素を指摘するデュルケムにとって、これに功利主義的説明を与えることはできない。デュルケムが言うのは動的密度で、これは最終的に人口圧力に行き着く。これは生物学的な説明である(p,32)。

 

「宗教的自由は、全てのプロテスタントに共通な倫理的規定価値であるからである」(p,46)。「『自殺論』の末尾でデュルケームはこの洞察を一般化し、個人の人格そのものを倫理的に評価するというのが我々の社会における支配的な共通の道徳感情である、という見解を披露している。これは宗教的自由および責任に関するプロテスタントの教説をその特殊ケースとするようなより一般的な現象を指し示している。この「崇拝」が存在する限り、人々は一方では、「自己の人格を発展」させるようーつまり独立で、責任感や自尊心を持つようー強い社会的圧力を受ける。他方、人々は他人を尊敬するようーつまり、同じように人格の発展を求める他人と共存しうるように己の行為を律せよというようー強い社会的圧力を受ける。ここでデュルケームが「契約の非契約的要素」の問題を経験的水準で解決することに成功したことは明瞭である。契約や交換を統制する規範的規則の体系ーこれによって「有機的連帯」は可能になるのだがーの原理は、少なくともある点では、個人の人格でに対する崇拝の表明にある。このことは単に社会によって課される倫理的制約から個人を解放するといったことがらではない。それは、異なった種類の倫理的制約の問題である。個性は、あるsy会状態、特定の集合意識の産物である」(p,47-8)。

「アノミーをエゴイズムとはっきり対置することによってデュルケームは上述の過程を完成した。有機的連隊と対比された集合意識のかわりに、今や集合意識の作用について二つのタイプが存在する。こうした集合意識の二つのタイプと対置される形で、規律をもたらす作用が弱体化している状態、その極には規律がの作用が全く欠如した状態が存在することになる。規律のこうした弱体化が存在する限り、アノミー状態が出現する。集合的統制からの自由、「個人の解放」は、エゴイズムとアノミーとの場合では全く異なった水準にある。個人の人格の発達は単に社会的規律が取り除かれれば可能になるといったことではない。人格の発達はある種の規律に服することによって可能となる」(p,51-2)。

 

第9章 社会的実証主義の方法論

デュルケムは『自殺論』で遺伝および非社会的環境という用語に還元可能な全ての要素を拒否したが、これらは行為者に「外在」し、行為者を「拘束」する「もの」に合致してしまう。それゆえ、「社会的要素は残余範疇となる」(p.74)。これを積極的に定義するために、「社会的事実は心的実体(意識・表象)に関する事実である」と述べている(p.79)。ところで、法典や自殺統計のような客観的データのみが経験的に観察可能なものであるが、これらは「社会的実在」を構成せず、ただ表現する。

「集合表象とは「社会環境」に関する行為者の「観念」、つまり社会における人間の結合という事実に帰属させられる外的世界の要素に関する行為者の「観念」のことである。行為が社会的要素によって決定されるのは、行為者自身の社会的環境、つまり「社会的実在」に関する合理的で科学的に検証可能な知識という媒介を通してである」(p,84)。観察可能なのは、「社会的実在ではなく、実在の表象のみである。とすれば、それは一個の実体であるが、経験的観察から永久に逃れ去る。それゆえそれは、科学的に正当化しえないような形而上学的臆断である」(p,86)。

 

第10章 社会統制論の展開

「拘束というという言葉を異なった意味に用いはじめた」。「人間の意志がサンクションをうけて拘束される」(p,111)。「こうして統制の問題を追求していくなかでデュルケームは、自然主義的因果性への服従という統制の捉え方、さらにまたサンクションの回避といった統制の捉え方といった統制の捉え方を経由して、道徳的義務という「主観的」感覚をもっぱら強調する地点へと到達した。拘束の要素は、意味を変えて義務感のなかで生き続ける」(p,119)。この新しい文脈では集合表象は共通の理念的規範になる(p,125)。

社会的なものと道徳的なものを同一視している(p,127)。社会は道徳現象であり、人間行為は究極的な価値体系と切り離して理解することはできない。共通した価値体系が複数存在する(社会類型)。

社会制度「こうしてあらゆる社会には、このようなひとまとまりの行為の規範的規則、すなわち究極的価値の具現物がある。一つの主要な側面で、社会の統合は、こうした規則が道徳的義務の同期によって活性化されているかどうか、その程度によって測定できる。しかしこれ以外に「利害」の動機が常に存在する。この動機は規則を本質的に行為の条件と見做し、服従する場合、不服従する場合、その際蒙るサンクションを感受した場合の個人的利益を比較考量し、それに従って行為を導く。

 ひとたびひとまとまりの規則が権威を伴い確固として確立されると、こうした動機がかなり変化したとしても、そこなわれないですむことがありうるーというのも体系維持に向かう利害の連繋が生じてくるからである。しかしサンクションの背後にある権力の究極の源泉は、規範に対する道徳的愛着の共通感覚であるーそれが弱まれば弱まるほど、それを共有しない少数者が多くなればなるほど、問題になっている秩序はますます不安定になる。というのは、利害の連繋というのはもろいもので、条件がちょっとでも変わってしまえば、決定的な点で動揺してしまうものだからである。利害の連繋にのみ依存している、したがってサンクションを基盤としている社会秩序は。理論的には考えうるかもしれないが、経験的にはほとんどありえない。というのは、一方ではサンクションの必要が高まると。その背後にある究極的な力は弱体化する。他方人間の社会生活の条件が現状のままだとしても。こうして脆弱で不安定な秩序を動揺させるに十分な変化というものを、撹乱要因をきわめて高い程度に閉め出している場合をのぞけば、長期間にわたって避けることはきわめて困難だからである」(p,146-7)。

 

第11章 最終局面・宗教と認識論

デュルケームにとって聖性の源泉は具体的聖物の内在的属性にあるのではなく、それが象徴するものにある(p,162)。「宗教的理念が全くの幻想でないとしたら、それは、外在的で観察可能な実在に照応しているに相違いない」 (p,164)。「神あるいは他の何らかの聖物は、「社会」の象徴的表象である」(p,165)。「これまでの議論から明らかなように、行為者にとって科学的意味におけるいかなる経験的実在も、宗教的観念の基礎にはないからである。究極的価値の体系は、経験的なるものの全く埒外にあること、およびその体系が観念と結びついている限り、それは非科学的観念であること、これがここでとられれている立場の真髄である」(p,178-9)。

「デュルケームの所説によれば、宗教的儀礼は、単なる表出であるとは言えなくなる。ーーー。究極−価値態度、すなわち社会構造と連帯性の基盤をなす感情が、行為の実効的統制と社会関係の秩序化を可能にするように「調整される」のは、儀礼を媒介にしてだからである、通常の宗教的言い方をすれば、儀礼の機能は、信仰を堅固にするところにある」(p,191)。「デュルケーム思想のこうした全側面は、いわゆる行為の主意主義的把握ー具体的人間が単に適応的役割ばかりでなく、能動的役割をも演じるそういった過程ーを指し示している。この創造的要素は、究極的価値、価値態度、目的、あるいは価値要素がとるあらゆる形態、その社会生活に対する表出様式、といった観念のなかに理論的に定式化されている。しかし、この要素は究極的価値を認知的に理解すること、あるいはそれを道徳的に受容するという意味で、自動的に自己実現するものと解することは依然として可能といえるかもしれない。儀礼の理論は、こうした立場を最終的かつ決定的に否定することを要請する。というのは、儀礼についてのデュルケームの見解は、さらにそれ以上の要素を、一般的にいえば意志あるいは努力という要素の必要性を含意しているからである。そこでは、経験的にいってこうした意志を活性化する作用因が重要な役割を演じているといえよう」(p,196)。

「範疇の源泉は、社会的実在のなかにあるからである」(p,201)。「ここでデュルケームが観察する実体とは、個人の「精神のなかにのみ」存在する」(p,203)。「理念は、具体的実在と同一視されるに至る。それゆえ行為範疇の中心的特性、すなわちその主意主義的性質。意志や努力の要素は、この図式のなかで、しかるべき位置をもたない」。「デュルケーム思想のこうした傾向の結果、社会学の目的は価値理念の体系そのものとみなされた」(p,205)。

第12章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会的行為の構造 2 マーシャル/パレート論

第2部 実証主義的伝統からの行為の主意主義的理論の形成

第4章 アルフレッド・マーシャル 

活動と効用理論

「厳密な意味での効用経済学は、欲望の満足を研究するのだが、こうすた欲望は事実として与えられたものと仮定せざるをえない。マーシャルが活動に最初に関心を抱くようになったのは、まさにこうした仮定が正当といえるかどうかという問題を解明するためであった」(p,13)。

「マーシャルが供給、特に生産要素の供給に関心を持つようになった主要な(多分決定的な)動機は次のように考えられる。すなわち経済生活に表出されている活力・活動・性格の諸類型がどうなるかによって、専門的な経済理論上の諸問題に直接的な影響が生じるからである」(p,16)。

「その上こうした活動の重要性に対するマーシャルの確信は、単に需要の強調のしすぎに対する解毒剤として述べられているわけではない。それは彼の消費に関する積極的な理論に直結している。ーーー。マーシャルの積極的な理論とは、消費が欲望と活動の関係に直接依拠しているというものである」(p,18)。

「生活基準」(欲望を考慮に入れたところの活動の基準)と「安楽」(人為的な欲望の基準)。

生物学的な必要、活動を考慮する欲望、安楽に結びついた欲望

生産要素の供給

「労働の供給とその強度という第一の側面を論ずるに当たって、マーシャルは、それは賃金と性の関数関係にあると主張する」(p,22)。「無論こうした関係が普遍的であると主張されているわけではない」(p,22)。「「より無知で無気力な種族」の行動は快楽主義と本能の名残りをはっきりと止めているのに対し、より開明的な人々の行動は、新しい活動による新しい欲望の創造を伴う、不断に上昇する「生活基準」によって導かれている」(p,23)。

「人々を支配しているのが生殖本能のような動物的欲望である場合、あるいは固定的な生活水準、つまり「安楽基準」である場合、賃金鉄則は妥当する。それからの脱出は、「生活基準」ーその本質的要素が欲望を考慮している活動であるーが上昇して初めて可能となる」(p,27)。

実質費用

「貨幣的な生産費用と区別された実質的な生産費用について、マーシャルは生産過程で費やされた「努力と犠牲」という見地から議論しているが、その場合、彼は要素そのものの生産に強い関心を持っていたので、「犠牲」をこのような限定した意味に限るわけにはいかず、従って「努力」も当然のことながら機会費用といった考え方で捕捉するわけにはいかなくなったことは明らかである」(p,20)。

自由な企業

「マーシャルが近代経済秩序を記述し分析する場合、その基調をなしているのは彼が言うところの「自由な産業と企業」である」(p,34)。自由放任。「マーシャルが高く称賛している性格上の資質や活動は、いたるところで自由な企業と結びつく一方、その反対のものー一方における怠惰と安逸、他方における虚栄と奢侈ーは、自由な企業以外の条件に常に結びついているか、あるいは少なくとも同じ社会で二つのものが存在する場合、両者は固有の結びつきをもたない」(p,40)。

社会進化

「マーシャルにとって、進化とは結局のところ、代替原理に依拠する行為、すなわち経済的に合理的な行為への漸進的接近の過程に他ならない」(p,42)。

「こうした理性の発達とともに進化の第二の過程が進行する。それが新しい活動の発達であり、生活基準の上昇過程に他ならない。こうした見方からみると、進化の過程の行き着く先は、ここでもやはり自由な企業ということになる。というのは、より高次な活動とは、近代西欧文化の活力と進取の気性がそれに先立つ時代の怠惰と安逸に勝利した体系によって涵養される活動のことだからである。後者のタイプの活動のなかには二つの種類を区別することができる。その一つが慣習に緊縛された社会における原始的安逸であり、もう一つが政府部門ないし何らかの大規模組織に見られる安楽でしかも不活発なルーティーンである」(p44-5)。

自然の秩序

「調整の最適性が存在するとすれば、それは欲望の発達段階ごとの活動と調整された限りでの最適性ということになる」(p,49)。

経済的動機

愛他的要素が進化の過程で拡大していく、人間は合理的存在へ成長していく。いずれも活動により。

経済理論の研究範囲の問題

「マーシャルの場合、その活動の価値は、需要とは本質的に独立した形で活動の特定の様式の中に直接具現されている。それ故彼は、活動の価値と純粋に功利主義的な欲望とを峻別することに極めて熱心であった。その結果、「活動」という言葉がその特定の様式を表現するために固定化されて用いられることになった」(p,59)。

「この活動に順応させられた欲望は、需要によった媒介されることなく、行為のうちに直接表現されるということばかりではない。その欲望はまた明らかにランダム性からも解放されている。この欲望がランダムでないのは、遺伝とか環境といった要因のためではない。もしそうならば、どうしてそれを生物学的な必要と区別することができようか。事実、それはよく統合された一つの体系、しかも首尾一貫した行為の理想を形作っている。それはバラバラな倫理的諸価値の状態ではなしに、単一の倫理を表現している」(p,60)。

「マーシャルの思想における功利主義的要素は主として功利主義の非実証主義的側面によって、すなわち「価値」の要素によって補完されている」(p,61)。

 

第5章 ヴィルフレード・パレート

「すでに述べた考察をのりこえるような方向で分析を進めるのでないならば、理論の体系は功利主義のディレンマと読んだ枠組の中にとどまることを強いられるだろう。というのは、パレートの定義に従う限り、行為の論理性に含まれているのは目的と手段お関係だけであって、目的相互の関係は一切含まれないからである。そして非論理性を無知と誤謬という観点だけからだけ考察する限り、行為を決定する要素は非主観的範疇の体系の中に、とりわけ遺伝と環境に求められざるをえないだろう。見方がこのように限定され、行為体系の全体構造に明確な関心が払われない限りは、論理的行為の体系は、こう入り主義的な体系化、あるいは極端に合理主義的な実証主義的な体型に行き着くだろう。他方非論理的行為の体系は、反−主知主義的な実証主義という極端に到達するだろう」(p,114)。

「理論が論理−実験的規準に一致しない場合、論理的にありうる偏奇のなかにはここで非科学的と分類されているようなものが存在することは確かである。というよりもむしろ、このことは、定義上真であるというべきである。パレートがこのような偏奇に注意を払っているのは当然であるし、またそこから導き出されるような思考の傾向は、彼の考え方の中でかなり重要な役割を果たしている。理論が科学的基準に合致しない場合、おそらくは理論的に唯一の重要な偏諱は非科学的と分類されるものである、という解釈を許すような口ぶりで彼はしばしば語っている。しかし彼が一貫しているかどうかはともかく、彼の思考のなかにはこのような図式に適合しないような根本的な緊張が存在している。この事実を打ち消すわけにはいかない。このような見方が示唆していることは、理論には非科学的要素ばかりでなく科学外的要素も含まれている、ということである」(p,115-6)。

「残基は行為体系にとってランダムなデータではなく、反対に、行為体系の明確な一つの要素を構成し、他の要素と理解可能な相互依存状態にある、という定理である。もしこのことが認められるならば、この定理は他の残基に対してと同様に、規範的残基に対しても適用されなければならない。そしてこのことは、目的のランダム性という功利主義の仮定と明白に矛盾することになる。目的が独立的要素として残基の範疇に入ってくる限り、それはランダムな目的ではなく、同じ体系内の他の目的ともまた他の行為の他の要素とも実証的に確定しうる関係に立っている。したがってパレートの概念図式の適用によって構成される具体的な体系は、功利主義体系でも、あるいは極端に実証主義的な体系でもありえないということになる」(p,119)。

「というのは、たとえ目的−手段関係が完全に論理的なものであったとしても、そこには科学的理論によっては正当化できないようなある目的が存在するだろうし、またパレートによれば事実存在する。そのような目的を正当化するもののなかには、誘導論理はともかく、少なくとも残基は含まれる。このことが、明示的であれ暗黙理であれ、パレートの立場に含まれている一つの定理であると論証される限り、パレートの立場を行為の実証主義的理論の一形態と見なすことはできない」(p,120)。

「しかし重要なのは、すべて規範的残基が非主観的な項目へ還元されるわけではないとするならば、その限りで、パレートの理論体系は実証主義的な体系とはいえないという点である」(p,121)。

「本研究では、非論理的要素は一貫して基本的に二分されているが、それと同じ二分法が、ここでは異なった形態をとって表れている。このような二分法は二つの方向から接近することができる。まず第一の方向の場合、ある行為は、行為者が受容した規範から乖離するが故に非論理的と名付けられる。この考え方に従えば、行為者特有の「理論」に含まれる象徴は、行為を規定する実在的力を適切に表現していないから、象徴の意味以外に、「感情」Aに含まれる別種の要素に訴える必要がある。しかしこの文脈においては、感情はすぐれて、行為者の主観的意図にかかわらず作用する要素を意味している。それ故、行為者の理論は主観的には無知と誤謬によって特徴づけられる。最後に、この無知と誤謬の源泉は、分析的には遺伝と環境、とくに「本能」という要因に帰着する。これが非論理的行為において重要なものである限り、決定的なものは感情である。しかしそれはあくまでも感情が本能を表出するものである限りにおいてである。感情が本能を表出し、次に残基が感情を表出するというふうに、一つが他のものの指標になっている」(p,132)。

「もう一つの文脈においては、事態は全く異なっている。そこでは行為が規範に同調するかどうかは問題ではない。問題なのは、「理論」の若干の要素が科学のなかで占めるその位置についてである。ここでは、規範と行為の関係は本質的に論理的行為における場合と同様である。異なっているのは、規範的要素の源泉である。いまの場合その源泉として求められるのは、外的世界の事実に関する行為者による正確な観察ではなく、行為者にとって「主観的な」あるもの、すなわち彼の感情である。この文脈では残基は感情を表出するものであるから、それはこの主観的要素、なかでも状況に関する科学的知識からは導出することのできないようなあの側面、つまり行為者の究極的目的ないし意図を、言語的に(すなわち象徴的に)適切に表現したものといえるだろう。ここでは表出ということを、指標というよりもむしろ表現と言い換えるのが適当であろう。事実の言明が外的世界のある側面を適切に表出していると言われるのと同じ意味で、残基は感情を表出しているということができる。問題の本質は、象徴と意味の関係にあるのであって、原因と結果の関係、あるいは相互依存の内在的関係のうちにあるのではない」(p,132-3)。

 

「パレートが行った論理的行為と非論理的行為という区別は、行為体系の構造の輪郭を描き出すための出発点としてその区別を使うことができる。非論理的行為に関する彼の議論の仕方を考察していくと、残基と誘導論理とに分けられる理論が論理ー実験的規準から偏奇する場合にそこには二つの異なった仕方があり、それらを区別しなければならないということに想到する。この規準から偏奇する理論は、要するに非科学的であるか科学外的であるかのいずれかである。偏奇が第一の範疇に属する限り、その偏奇の背後に属する要素は、反主知主義的な実証主義の枠組に合致しうる。そこでは、感情という要素は、遺伝や感情といった非主観的要素が行為を規定するその通路に他ならない。これに対して、偏奇が理論のなかの科学外的要素に起因するような場合、反主知主義的実証主義の枠組みに収まるというようなことはありえない。というのは、残基は行為の究極的目的であるかもしれないし、その場合には感情も生物学的用語に還元することはできないことになる。感情は依然として「主観的」要素のままだからである。同じことが、少なくとも、目的ー手段関係における選択的要素に関しても当てはまるだろう。その場合には、例えば儀礼のように、結びつきは、論理的観点からは恣意的なものであるが、しかしそれは本能的動因ではなくてむしろ規範的感情を表出しているものとして解釈する余地は依然残されている」(p,136)。

 

第6章 ヴィルフレード・パレート

「それでは、抽象的社会の第二のタイプが持つ重要性はどこにあるのか。それは、分析的意味における行為の目的が、行為者にとってみれば、論理–実験的科学のデータという意味で必要とされるような経験的事実ではないということ、こうした見方をパレートに抱かせるに到ったところにある。しかし目的が行為を決定する上できわめて重要だとすれば、「もっぱら理性によって決定される」社会が存在することは、あらかじめ排除される」(p,147)。

 

「第一に、前章の結論に従えば、パレート自身の残基の分離にみられる区別に加えて、残基に表出される感情の中に行為体系における二つの異なった種類の構造的様子を弁別することが本研究のためには必要であった。この結論は、社会ダーウィン主義に対するパレートの関係を考えることによって、はっきりと裏付けられた。彼はこの教義を条件付きで拒否しているが、このことによって示されるのは、非論理的行為に含まれている感情はそれを反主知主義的心理学の言う動因へと全面的に還元することはできないということである。パレートの社会ダーウィン主義に関する明示的な言明は、彼がいう二つの仮説的な抽象的社会のうち、ダーウィン主義を適用しうるのはそのうちの一つに過ぎないということによってさらに裏付けられた。他にもう一つの社会類型が定式化されていることから窺えるのは、ダーウィン主義的理論は行為の要因として価値要素の役割を認識し損なっている点にその主要な限界の一つがあるということである」(p212-3)。

「さらに本研究の観点からパレート自身の明示的な分析を補うために、複数の個人をそのうちに含む行為体系の構造に対して論理的行為がいかなる含意をもつかという問題を取り上げた。この結果得られたのは、内在的な目的-手段関係の統合された連鎖という概念であった。その連鎖の一方の端には、個人についてであれ社会についてであれ、究極的目的の統合された体系がある。そしてもう一方の端には究極的な手段と条件、すなわち遺伝と環境がある。そればかりでなく、中間的部門というものがあって、それは、それは、考慮すべき条件の範囲の広がりに応じて三つの主要な下位部門に分けられるということもわかった。この下位部門とは、技術的、経済的、政治的という三つの部門である。

 こうした図式が単なる恣意的な構成物ではないことは、それをパレートの社会的効用論に適用するなかで立証された。その図式を使えば、パレート自身のもともとの分析図式の中では十分展開されていなかった主要な理論的要素をすべて説明できるということ、この点が明らかになった。とりわけパレートが集合体の全体的効用の概念にとって本質的なものと見做した「社会が追求すべき目的」という概念は、究極的には共有された究極的目的の体系を社会の行為体系と考えることなしには到底理解することができない。これが、パレート流に言い換えられた社会学主義的公理というものであり、この出現によって実証主義的伝統に共通する社会学的個人主義から根本的に離脱していることが立証された」(p,213-4)。

「最後に、このような合理的対なタイプの体系と行為体系の他の部分とがいかに関係するかという問題が提起された。その結果、それはたしかに規範の一つの体系を構成するが、しかしこの規範によって形成されるのは行為の構造的規定因の一つのグループ、それもたった一つのグループにすぎないということがわかった。行為の構造的規定因の中には遺伝と環境という要因も含まれているが、これらの要因は究極的な手段と条件という役割を演ずるとともに、合理的な規範実現の阻害要因である無知と誤謬の源泉としての役割も演じる。そしてこれらの要因は、他のものと一緒に感情の中に含み込まれている。

 他方、究極的目的はより大きな複合体の一つの要素にすぎず、その複合体の核は価値態度の体系であるということもわかった。この価値態度も感情の中に含まれている。この価値態度は、内在的な手段-目的連鎖における究極的目的、したがってまた究極的な経験的目的と関係をもつばかりでなく、超越目的とも関係を持っている。そしてまた、この価値的態度を含む行為様式としては、儀礼的行為、制度的統制。芸術、遊びその他諸々のものが考えられる。この究極的な価値複合の全体は、一方では目的~手段の中間部門によって、他方では遺伝と環境の要因によってはっきりと区別されるような輪郭の明瞭な境界を持つ構造的要素の集合体から構成されている」(p,214)。

 現在の構造的分析の文脈においては、パレートの論理的行為という概念は、正確には内在的な目的-手段の連鎖の中間的部門に対して用いられるのがふさわしいということがわかった。それでは、パレートが残余範疇として定義していた非論理的行為はどうなるのか。はっきりしていることは、そこには構造的要素の二つの主要な要素が含まれているということである。すなわち、一方では非主観的体系、とくに遺伝と環境によって定式化することのできる要素があり、他方には価値複合によって定式化できる要素が含まれている」(p,215)。

 

第7章 ヴィルフレード・パレート

「この様にして、パレートの循環理論は、理論的観念と特殊な経験的主題との絡み合いに関するおそらくは最も規模雄大な例を提供している。循環理論が裏書きしているのは、少なくともこれまでの分析の要点、すなわち、パレートの非論理的行為の範疇における価値的要素の持つ役割の重要性である。というのは、集合体の持続という残基を分析していくなかで他のいかなる要素が明らかになろうとも、循環にとってきわめて重要な要素は「信仰」という形をとってこの「イデオロギー」的側面に現出するということ、この点に疑問の余地はないからである。一方では、このような信仰あるいは価値複合体のなかに表現されている感情によって加えられる行為に対する実効ある統制と規律、他方では欲望と利害の相対的に自由な発現を許すような統制の弛緩-この両者の交替こそが循環の本質である。そして、後者は、同時に不安定さを生み出す諸条件を作り出し、それによって、循環のこの局面は、遅かれ早かれ循環へ導かれる」(p,246)。

 

 

社会的行為の構造 1 総論

第2章 行為の理論

「単位行為」 準拠枠

1、「行為者 2、「目的」 3、「状況」(行為者が制御しえない「条件」、制御なしえる「手段」) 4、「規範的志向」(状況の選択可能性)

①行為は時間的過程である、②「誤り」の可能性がある、③図式の準拠枠は主観的である

 

功利主義体系

 原子論、合理性、経験主義、目的のランダム性

 

功利主義のディレンマ

「もしも、目的がランダムでないとしたら、それは行為者が「ある経験的実在の科学的知識に基づいて目的を選択しうることに起因するだろう。しかし、このような修正教説は、目的と行為状況とを融合し、功利主義的立場にとって本質的な両者の分析的独立性を破壊するという論理的帰結に不可避的にもつ。なぜなら、事象の未来状態に関する経験的知識は、現在および過去の状態に基づく予測を唯一の可能な根拠としているからである。その場合、行為はその条件によって全面的に決定されることになる。なぜなら、目的が独立していないなら、条件と手段の区別は無意味なものとなるからである。行為はこのような諸条件に対する合理的な適応の過程となる。行為者の能動的役割は、自らの状況を理解し、未来の発展方向を予測するという役割に還元されることになる」(p,105)。

「無知と誤謬という言葉は、常識的には、単なる適切な知識の欠如を意味しているとうけとられている。しかし、実証主義的見地に立つなら、その言葉はもっと特定された意味内容をもたなくてはならない。科学的知識は人間が外的実在に対してもつ唯一有意味な認知的関係であると主張されている以上、問題となっている行為者が、なぜ無知あるいは誤謬あるいはその両方の犠牲者のなるのかを説明するには、二つの選択肢しか開かれていない。その一つは、この主観的事実を、科学的見方では行為との関連性を内在的に理解しえないような状況の諸要素の反映と見る見方である。その場合、それらはランダムな要素であり、より立ち入った理由や原因を穿鑿することなく最終的データとして取り扱う以外ない。その二は、それを説明しようという途である。無知や誤謬は、行為者が理解し損なったかあるいは積極的に誤解しはしたが、内在的に理解可能な要因の結果であるというのがその説明でなくてはならない。したがって、科学的探究者にとって唯一可能な方途は、行為者の主観的経験の「うらをのぞきこむ」こと、すなわち行為図式の主観的範疇をすて、客観的過程をとるやり方である。この客観的過程は、行為者自身「実際に」何が起こっているか知らないし、意識すること見なく行為者に働きかけている影響活動と想定されるだろう。

 ーーー。行為者は行為の過程でこのような要素を知るようになり、それに対して合理的に行為することが可能である限り、行為者はこの要素に関して科学的に妥当な知識を獲得し、無知や誤謬を除去するという形をとらねばならない、というのが以上の考察の結果である。ーーー。その場合、科学の手の届かない非合理性とは、終局的に行為者が人間事象に作用しているものについて、論理的に可能な補完的知識を持っていないことによって始めて生まれるのである。

ーーー。実証主義に基づく非合理性の説明は、既知の事実ではなしに、行為syが科学的に知ることが内在的に可能であるような要因に依拠せざるをえない以上、このような要因は、分析的一般化を行えば、非主観的定式化が可能な範疇、すなわち行為の条件に基づいていると考えられねばならない」(p,108-9)。

 

「功利主義的立場が放棄され二つの主要な修正教説のいずれかに流れこむ場合、実証主義の地平で行為を説明するやり方は、ただ一つ、主観的というよりむしろ客観的なものと想定された行為の諸条件に基づくもののみである」(p,110)。

「本章の冒頭で考察対象である概念図式、すなわち行為理論の構造の中核をなすものは、観点の主観性であるという事実に注意を喚起しておいた。しかし、合理主義的形態のものであれ、あるいは反主知主義的形態のものであれ、実証主義思想を極端に押し詰めたその極において、この観点の分析的必要性は消滅する」(p,110)。

 

第3章 行為理論における個人主義的実証主義の歴史的発展の諸段階

「実際、中核的な問題は次のように表現されよう。すなわち、一般的行為の図式を援用しながら、しかも諸利害の自然な一致という異議のある形而上学的教義をその支えとせずに、ホッブズ的秩序の問題をいかにして解決することができるか、という問題である」(p,167)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本社会と外国人

日本への「不法入国」、「密航」への対策が戦後の出入国管理政策の基礎となったが、これはGHQが朝鮮人・台湾人、沖縄・奄美出身者が引き揚げたのち許可なく内地に渡航してはならないとしたこと(1946年3月)に由来するものであり、「不法入国」や「密航」は新天地での困難に直面して慣れ親しんだ居住地に戻ることを意味していたかもしれない(p,24)。

第日本帝国憲法下の最後の勅令である外国人登録令(1947年5月2日)の公布によって、国内(内地)に居住する旧植民地出身者は外国人とみなされた(p,33)。また、この勅令は「密航者」を発見して送還するための法的根拠となった。

サンフランシスコ講和条約発効の前日、「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍および戸籍事務の処理について」(1952年4月19日)と題する通達により旧植民地出身者は居住地や個々人の希望に関わらず一律に日本国籍を喪失した(p,36)。その結果、在留資格を有することなく国内に滞在することになった。また、参政権、年金など日常生活で必要な多くの権利と戦後補償から排除された。

日韓基本条約により(1965年)、韓国国民として扱われる協定永住資格者と、資格を申請しなかった事実上無国籍で在留資格のない「朝鮮籍者」とに分かれた。また、協定永住資格者はサンフランシスコ講和条約発効時までに生まれたものとその子に限られた(p,59)。

日華平和条約が発効すると(1952年)、台湾人は在留資格がなく「中国籍」として扱われ、大陸系中国人は「中国籍」であっても植民地出身者でないことから在留資格の取得の申請が必要だった(p,62)。

入管闘争(1969年から73年)。難民条約の批准(1981年)にあわせて社会保障関係法などから国籍条項が撤廃された(p,80)。

出入国管理及び難民認定法の制定により(1982年)、旧植民地出身者のうち協定永住資格を取得していなかった者にも申請すれば一般永住資格が付与された(特例永住資格)。ただし申請期間以降に生まれた該当者の孫以降の世代には適用されなかった(p,89)。指紋押捺拒否運動。

1990年入管法は、労働者不足と「不法就労者」対策を同時に達成する目的で制定された。単純労働者には在留資格を設けず、研修制度を導入し、定住者制度を創設、非正規滞在者に対する一律の在留許可を行わず、「不法滞在」「不法就労」を問題にした。新たに設けられた在留資格は、医療、法律、会計事務、研究、人文知識・国際業務など十二の「活動に基づく在留資格」、「研修」(のちの技能実習)、難民申請者の一部、中国残留日本人、「日系人」が含まれる「定住者」、「日本人の配偶者等」(p,103)。

また、1991年に制定された「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(入管特例法)で、52年4月に日本国籍を喪失した旧植民地出身者のうち日本国籍を持たない者のうち日本国籍を持たない者のすべてを対象として特別永住資格が創設された(p,105)。

2006年の入管法改定で、日本に入国する16歳以上の(特別永住者を除く)外国人に対して、生体情報の提供を義務付け、取得した情報をデータベース化し、犯罪捜査だけでなく在留管理にも利用できるとした(p,131)。

2009年入管法で、在留資格「技能実習」を設定する一方、外国人登録法は廃止され新たな在留管理制度が導入し、非正規滞在者を排除し、外国人の出入国と在留に関する情報を法務大臣が一元的に管理することを可能にした(p,162)。

2016年5月24日ヘイトスピーチ解消法成立。

2018年入管法改定、人手不足への対策として在留資格「特定技能」を創設。「特定活動(EPA)」、2016年在留資格「介護」を創設。

「特殊な定義によって「移民には当たらない」労働力を受け入れた結果、永住を前提とした政策、すなわち移民政策を設ける必要はなくなる。「高度人材」がまた日本に定着・永住しないことも、雇用先としての魅力だけでなく、同じく移民政策の不在によってもたらされている可能性がある」(p,229)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハーバート・スペンサー コレクション

『政府の適正領域』

政府は正義の執行(自然権の保全)のためだけにある。そうすると、通商の規制(穀物法)は有害である、国教会は不要である、救貧法は認められない(「貧困に対する公的な蓄えがあるとき、金持ちの方では善意を実現しようというインセンティヴがないだろうし、貧しい人々の方では賢慮と節約への傾向がないだろう」p,29)、戦争は巨大な害悪であり政府から侵略の権能を奪うべきである、人為的な植民地化は有害である、国家教育は社会進歩に不可欠な多様性と独創性を破壊する、公衆の健康維持は立法の対象ではない。万人が費用負担なしに法の保護を受けられるよう、労働者階級には選挙権を付与すべきである。

 

『社会静学』

第一原理「すべての人は、他のすべての人の等しい自由を侵害しない限り、自分の欲するあらゆることを行う自由を持つ」(p,137)。

生命と人身の自由の権利、土地を利用する権利(「衡平は土地の私有を認めない」p,150)、財産権(「特定の期間、特定の目的のために、特定の条件のもとで、同胞から一筆の土地を貸借すれば、一個人が約束の賃料を人類に払った後で、残る部分の生産物を自分の財産にしても他の人々の権利を何ら侵害したことにならない」p,170)、観念への財産権(「人が自分の知的労働によって得たそのような知識を自分一人で使うために秘めておくことも、自分の私有財産として主張することも、道徳法則は許している」p,179)、政治的権利(「政府が存在するのは、万人が幸福への等しい権利を持つというこの法則を実現させるためだ」p,203)、国家を無視する権利(「法的状態からの自発的脱退の状態を採用する権利を市民に認めざるをえない」p,204)。

「すぐれたタイプの社会的組織は各部分の相互依存によって特徴づけられるのだが、それは各部分が相互を信頼できる限りでーつまり、人々が同胞に対して正しく振る舞う限りでーつまり、平等な自由という法則に従う限りでー初めて可能になるからだ」(p,225)。

 

『人間対国家』

新しいトーリー主義

「元来トーリー主義とリベラリズムは、片方が軍事社会から、他方が産業社会から発生した。前者は身分の制度を、後者は契約の制度を代表したー前者は階級間の不平等に伴う強制的協力のシステムを、後者は諸階級の法的平等を伴う自発的協力を伴うシステムを。そして何の疑問もなく、この二政党の初期の行動は、この強制的協力を行う諸機関の維持と、その諸機関の弱化あるいは制限をそれぞれ支持していた。このことの含意は明らかに、今リベラリズムと呼ばれているものは、それが強制のシステムを拡張している限りにおいて、トーリー主義の新しい形態だということだ」(p,275)。

迫り来る奴隷制

「第一は、あらゆる苦しみは予防されるべしというものだ。これは真ではない。苦しみの中には治癒的なものがあってそれを防ぐことは治癒を防ぐことになってしまう。第二は、あらゆる悪は除去することができるというものだ。しかし真理は、人間性の現実の欠点を前提すると、多くの悪はある場所から排除すると必ず別の場所に移るか罰の形を取るに違いないーしばしば変化によって増大さえするー、ということだ。前記の叫びはまた、国家があらゆる種類の悪に対処しなければならないという不動の信念も含意している」(P,292)。「規制政策のいかなる拡大も規制機関の増加ー官僚制のさらなる成長と公務員組織の権力の増大ーを含んでいる」(P,292)。「実際に、公的な機関が増えれば増えるほど、市民の中には、あらゆることが市民のために行われるべきだが何一つ市民によって行われるべきでない、という考え方が生まれてくる」(P,295)。「かくしてさまざまな種類の影響が力を合わせて、団体の行為を増大させ、個人の行為を減少させる。そしてこの変化はあらゆる側面において計画家によって助長されている」(P,300)。国有化、社会主義。「共同体のメンバーは、個人としては全体としての共同体の奴隷になる」(P,311)。「その最終的帰結は専制政治の再生だ」(P,311)。

立法者たちの罪

「社会内部における支配権力の攻撃性は社会の外への攻撃性とともに増大する」(P,316)。「元来戦争の倫理と同一だった政治の倫理は長期にわたって前者と似ているに違いない、ということだ。政治の倫理が前者から離れるのは、戦争とその準備が減少するからにすぎない。現在の状態がその証拠だ」(P,317)。「立法者たちが彼らの義務を行うにあたって備えていると言われる、この現時点の最高の知識なるものは、その大部分が明らかに重要でないもので、彼らは何が本当に重要な知識なのかわかっていないということについて責任がある」(P,342)。「本当に必要なこと、それは社会の中に集まっている人々の間に見られる自然な因果性の体系的研究だ」(P,342)。「個々人はある程度まで身体的にも心理的にも変えることができる」(P,343)。「構造の変化というものは何らかの仕方で遺伝される。世代ごとの小さな変化が積み重なって体質が状況に適合する」(P,343)。「諸個人はそれぞれに欲求の満足を求めており普通は自分の既存の習慣と思考によって一番容易に見える仕方でー一番抵抗がすくない仕方でーその手段を追求している」(P,344)。「満足を求める人々の諸欲求の中で、彼らの私的欲求と自生的協力を促してきたものの方が、政府機関を通じて働いてきたものよりもはるかに社会の発展に寄与してきた」(P,345)。「適者生存の有益な働きが過去の人々よりはるかに強く印象づけられているので、その作用を打ち消すことをためらうだろうと期待できる現在ー人々は世界史上かつてないほどまで、不適者の生存を促進するためにできることをすべて行っている!」(P,356)。保護主義。「この害悪の根源は、社会とは作り出されたものだという誤謬にある。社会とは成長したものだ。過去の文化も現代の文化も、社会に関する科学的な見方を多くの人々に与えてこなかった。その科学的見方とは、社会をあらゆる制度ー統治制度、宗教制度、産業制度、商業制度などーが相互依存的に結びついた自然な組織、ある意味では有機的な組織としてとらえるものだ」(P,363−4)。「社会の中のいかなる現象もその起源を個々人の現象の中に持ち、また生命現象の中に持っている、ということだ。ーーーつまり、結びついた人々が協力しなければならないときに人々の中から発生する現象の中には何らかの種類の秩序が存在するに違いない。すると明らかなことだが、社会秩序の結果生ずるそのような現象を研究したことがない人が社会を規制しようとしたら、彼はきっと害を生じさせるだろう」(P,366)。「社会組織の細部に介入する前に社会組織が自然史を持つか否かを研究すべきであり、この研究のためには最も単純な社会から始めて、社会組織がいかなる点において一致するかを見るのがよい、ということは十分に明らかだ。このような比較社会学をわずかでも行うならば、社会の生成の際の実質的な統一性が見られる。ーーーこれらを比較する人の誰にとっても、あらゆる個別的相違にもかかわらず諸社会はその生成と発展の仕方において一般に類似しているということがわかるはずだ。社会構造のこれらの特徴は、社会組織は諸個人の意志を乗り越える法則を持っていて、その法則を無視すると災いが生ずるということを示している」(P,367)。「立法の機能のためには、過去が遺したそれらの立法の経験に関する広い知識が欠かせない」(P,368)。

巨大な政治的迷信

「政府の権威は無制限だとという、トーリーにもホイッグにも急進派にも共通する暗黙のドクトリンは、立法者が神からの委任状を持っていると信じられていた時代にさかのぼり、今なお生き残っている」(P,370)。「議会の権利神授説は多数派の権利神授説を意味している。ここで立法者も人民も同じように行っている根本的な想定は、多数派は無制限の権限を持つというものだ」(P,376)。「多数派の意志に拘束さされることに事実上全員一致で同意しないような、行為の種類がたくさんある」(P,384)。「権利の創造と称されれるものは、社会生活を営む人々の個人的欲求から自然に生じる権利の主張と承認を形式的に裁可し、よりよく定義することにほかならない」(P,392-3)。「社会の進歩につれて、人々の権利を形式的に裁可するだけでなく、それを侵害に対して守ることも、ますます国家の仕事になってくる」(P,393)。「産業活動の増大と、それがもたらす身分制度から契約制度への変化、それに結びついた諸感情の成長に伴って、人々の行動への干渉は少なくなった」(P,395)。「諸個人の権利を認めてそれを強制することは、同時に正常な社会生活の諸条件を認めて強制することでもある」(P,407)。

 

「政府の力をその限度内に制約することは産業型社会にだけふさわしいもので。軍事型社会とは全く調和しないが、現在発展した諸国の特徴である半軍事的・半産業的社会とは部分的にしか調和しない」(P,415)