河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』

 出た頃それなりに話題になった本。今頃必要が出てきて読んでいる。最初に、日本の治安は悪化していないという、知っている人なら知っているけど、知らない人は知らないことをかなり立ち入ったデータの分析で明らかにし、それでも、体感治安の悪化をはじめ、起こっている変化は何なのかを明らかにしていく。その分析が、一種の日本社会論になっているのが、いささかのいかがわしさを伴わせつつも、面白く、また得心のいく部分も大きい。近年、日本史の本を読みながら自分が考えてきたこととも符合するところがあったりして、興味深く読めた。

犯罪数はせいぜい微増、警察の検挙能力もそれほど落ちていない。凶悪化は全くの誤りで、犯罪者側には「技術継承」の問題から衰えが見られる。ただし、そのため、無計画では歯止めのない、妙な事件は散見される。こういった犯罪状況であろう。しかし、このような状況にもかかわらず、いわゆる「体感治安」の悪化は激しい。それは、安全神話が崩壊したためである。
 犯罪不安の増大は、住宅街での財産犯が増大したことと、マスコミ報道の影響の二点を考えがちである。これは間違いではないが、安全神話が崩壊するという、よりマクロな変動のなかに原因を見るほうが事態を深く捉えることができる。安全神話とは、「ハレ」と「ケ」、つまり「非日常」と「日常」という境界によって、犯罪を非日常世界に閉じ込めることを基本構造としてきた。「犯罪に無縁の一般住民」が、日常生活において犯罪に係ることに出会わないように、「犯罪に係る人々」が尽くす仕組みである。この仕組みの要点は、犯罪者の更生において、「赦して」日常共同体に帰すか、特別な隔離された環境で再適応させるか峻別しながらやってきたこと、一般住民に犯罪関係の情報を提供しないこと、さらには、繁華街と住宅街、夜と昼等の境界も活用して「安全地帯」を確保してきたことである。
 安全神話の崩壊とは、これらの境界が弱まることにうよって起きた。---。変化の中心をなすのは、人々を拘束してきた伝統的共同体の衰退、それもとりわけ匿名社会科であった。匿名かは、差別を解消に向かわせた。そして、その差別こそ、犯罪者を一般住民から隔離するという排除を行いながら、社会全体からは追放しないで再統合する方法の鍵であった。共同体から「自由」になった人々は、ミニコミを失い、マスコミに頼る。その結果、犯罪情報のマスコミを通じての公開が要求される。彼らは、好きな時間に、どこにでも出かけて、そのうえで安全を要求する。合理的な判断ができる責任が持てる個人ならば、完全な安全など実現できるはずはなく、しかも、要求するだけでなく、自分達が協力することを考えねばならない。安全神話に守られなくなった後に生まれたのは、不安に耐えられない、個人とも市民とも呼べない「要求の高い住民」であった(273-4頁)。

安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学

安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学