『教師と学生のコミュニケーション』

 先週には読み終わっているはずの積み残しを片付ける。西洋の近代化を前に非西欧諸国がそれに追随しようとその知識の導入をはかるとき、いずれか二つのやり方で対応しなければならなくなる。すなわち、科学知識等々を母(国)語に翻訳して導入するか、それとも西洋語(英語)のまま導入するか。翻訳できればそれだけ学習も容易になり、近代化も早く進めることができるわけだが、グローバリゼーションが進むと言語まで輸入してしまった方が都合がよくなる。いずれにせよ、どちらもある種の二重言語体制を作りだしてしまうことには変わりがない。
 日本は前者を選択して、膨大な翻訳語の体系を作り上げていったわけだが、いくら学習が容易になるとはいえ、日常生活とはかけ離れた専門用語体系を学習することは、やはりそれほどたやすいことではない。こうして、一言語のなかに二つ(あるいはそれ以上の)言語体系ができあがることになる。翻訳して導入しなければ、本当に二言語体制ができあがる。
 それで昔からよく言われてきたことには、翻訳語は、原語からならうかがいしれる日常語との連続性がわからなくなってしまう云々という、おそらくは「西洋に比べて日本は」式の話のヴァリエーションがある。たしかに、やたらと難解な訳語を作るのはどうかと思うが、この話、学生の頃からまゆつばに思えて仕方がないところがあった。西欧諸国だって均質な国民を作りだす必要があったわけだし、学習しなければならないのは言葉ではなく知識の体系なわけだから、程度の差はあれやはり実質的な二言語体制が作りだされてしまうのではなかろうか?そして、後にB・バーンステインやP・ブルデューのようなそれに類する研究が存在することを知る。
 ブルデューの初期の研究であるこの本も、ある種の二重言語体制を背景に、大学で学ばれる知識を評価しようとしても、その結果出てくるものは必ずしも学習された知識を反映せずに、出身階層や出身地域、性差等々から理解できてしまうという表象批判を行ったものだ。とはいえ、これを決定論的に理解することはできない。
「社会的帰属に、因果的な連鎖の糸口を見るべきではないだろう。なぜなら、階級帰属がその影響を完全に行使するのは、それぞれの媒介物を通してだからである。ただ抽象化することによってのみ、たとえば、「学生」ないし、労働者の息子である学生、あるいはまたラテン語ギリシア語を履修している労働者の息子である学生に、ついて我々は語ることができるのだ」(89頁)。
 さらに、「こうしたメカニズムが機能するには、外的には教師と学生の共犯関係としてのみ現れる行動によって補完される必要がある」(50頁)。「伝統的形態による教育的コミュニケーションの場合、言語情報の生産性が、それ自体教育の生産性の尺度となる。なぜなら少なくとも文系の学問領域では、教育的関係は言葉の交換に帰着する」(45頁)。
 しかも、教師にとっても学生にとってもそこでおこったことについて言語的理解不全を受け入れる動機づけが存在する。「彼らは伝統的なシステムの生産物であり、またこのシステムは安全性の最大化の論理に従っている」(50頁)。というわけで、同じような教育的コミュニケーションが再生産される。この話、ルーマンの議論にそっくりおさまってしまいそうなのだが---。

教師と学生のコミュニケーション (Bourdieu library)

教師と学生のコミュニケーション (Bourdieu library)

社会の教育システム

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