いのちの倫理

 読了して思うに、内容にはあまり異論がなくても、これで話を片付けられては困るという思いは強い。いのちの私有化でもなく公有化でもなくということはよく分かるし、そのなかで命を私有化を批判するのも分かる。しかし、ここで大庭氏が問題として取り上げているようなケースは、命の私有化、それ以上に「自己決定-自己責任」という枠組みで論じきれるものなのであろうか?

ただ私たちは、いのちの私有化をあまりにも自明とみなし、そして人生の個人事業化になれきってしまっている。すなわち、生きるとは、自分が所有しているいのちを元手に実りをあげる個人事業を経営することだ、という人生観が、空気のように自明になってしまっている。その結果、ひとたびドラマやマスコミが提供する悲劇をはなれて、現実のコミュニケーションにもどると、「自己決定-自己責任」という錦旗のもとで、相互不干渉に絡みとられたまま、SOSを抑えつける力に鈍感な日々を繰り返すことになる(177頁)。

 深刻なトラブルの被害者は、自己決定能力のある主体から被害を被っているのであろうか、あるいは、それを見て見ぬ振りをするのは、互いが「独立不可侵のプロジェクト経営者」同士なのだろうか?そもそも、トラブルの加害者は自分の加害性を認めない、ないしは認められないだろう。見て見ぬ振りをする人たちは、いざとなったらあれこれと弁解を始めるかもしれない。とするなら、ここにみられるのはむしろ、個人事業主になりきれない人たちが、他人に依存し、甘える姿ではないだろうか?私は、大庭氏が指摘するような問題は、「「自己決定-自己責任」という錦旗」のもとでなくとも起きるし、起こってきたと思うし、むしろ、この錦の御旗はもっぱらそうした現実を糊塗するものにしかなっていないと思う。

問いの転換のポイントは、「おかげ」への応じ方が、"私は、いのちから何をなお期待できるか”という問いに駆動されてではなく、”いのちは私に何を求めているか”という問いに促されて選択される、ということである(206頁)。

 とても共感できるのでだが、われわれは”いのちは私に何を求めているか”と問われるほどの「私」でどこまでいられるのだろうか?むしろ、こうした前線に留まっていられない一方、なんとかそれを守ろうと退却戦を行っているのが実情ではないかと思う。とはいえおもしろい本ですよ。それからこれと以外に近い線にあるのではないか? http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20111217/p1 (追記)やはり索引はつけてほしいです。
 

いのちの倫理

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