『傷ついた物語の語り手』

 「脱近代社会においては、ますます多くの人々が、さまざまな言語化と行動の段階において、医学が自分の苦しみを一般的で統一的な視点へと還元してしまうことへの不信を表明する、寛解者の社会のメンバーは、医学の世界を裏から表まで知りつくし、医学的な語りの中での自己の位置づけを問い直す」(29頁)。で、「病は語りの難破を引き起こすひとつの特異な機会である」(103頁)ということで、「回復の語り」「混沌の語り」「探求の語り」という三つの自己物語の形式が紹介される。
 物語と身体という概念がゆるいと思った。それに病と自己物語はそれほどストレートに結びつくものなのだろうか?そもそも誰もが語る機会に恵まれているわけでもなければ、誰もが語らなければならないわけでもあるまい。また、最後にいくほど話についていけなくなる。病の経験を語ることが他者を触発するような機会はたしかにあると思うし、そうした例を見出すことは容易だろうけれど、理想型とはいえ、それは倫理的な問題に格上げできるようなものなのだろうか?あと、物語ることと想像的同一化とのあいだにはもっと容易に切り離せないような結びつきがあるように思える。他方で、私としてはもっと身近な病の語りが紹介されていることを期待したのだが---。
 たとえば、慢性疾患なら、一見するとふつうに暮らしているように見えることもあるわけで、そうすると相手は患者の実際の状態を知らないまま、状態がよさそうに見えるので軽い気持ちで「調子はどう?」と聞いてきたりすることがあるだろう。患者がそれに答えるにしても、特別な事情でもないかぎり、実は自分のいまの状態はどうこうでって語り始めるのは、相手の想定外だろうし、お互いがきまずくなるだけでさしたるメリットがあるようには思われない*1。だったら、本当はあまりよくなくても「大丈夫」とか「大したことはない」とかと語らざるをえない、語れないような場面って少なからずあると思うんだけど。
 

傷ついた物語の語り手―身体・病い・倫理

傷ついた物語の語り手―身体・病い・倫理

*1:これ、一見ふつうにしているようなので、いつもどおり話していたら、実は相手の身内に不幸があったことがわかるなんてケースとよく似ている。