保坂智『百姓一揆とその作法』

 「近世社会には、百姓らが武器を持ち権力と戦闘するのが一揆である、という認識が存在し」(7頁)、その掉尾を飾るのが「島原・天草の乱」であり、「島原・天草の一揆は、その発生当時一揆として認識されていた」(5頁)。
 こうして「一揆」と呼ばれる民衆運動は収束していくのだが、それと入れ替わるように、「これが急速に減少する1610年代に越訴・愁訴・逃散が登場し、中世的な一揆から、近世の百姓一揆への変換がみられることになる。ここに成立した百姓一揆は、最初は逃散形態を特徴とするが、17世紀後半に入ると越訴形態を中心とした一揆へと変化する」(35頁)。「われわれが百姓一揆として考える徒党・強訴・逃散とは、大勢申し合わせることを前提とした違法な訴訟活動であると規定できる」(20頁)。
 ところで、17世紀の時点では、逃散や直目安(越訴)は必ずしも処罰の対象ではなかった。「封建社会であっても、国家支配を展開する以上、直訴権を含めた民衆の訴訟権を認めなければ、強固な支配体制は確立できないのである」(78頁)。18世紀以降も、越訴は好ましくないが、それだけで罪を構成するものではないとされたが、逃散は強訴と同様に、徒党として公事方御定書あたりから処罰規定が定められていくようになる(79頁)。

 天草・島原の乱一揆の解体によって一揆が終焉する寛永期に、幕府・諸藩は新たな民衆運動を徒党としてとらえはじめていることは興味深い。幕府・諸藩の認識から見た場合、幕藩制下の民衆運動は、一揆から徒党へと変化したのである(101頁)。

 「徒党とは、起請文をとりかわして誓約し、そこに一味連判したうえで、神髄をして一列した集団であると」される(96頁)。しかも、それが全藩規模へと拡大していく。

17世紀半ばまでに全国的に一カ村か数カ村で目安・逃散などの抵抗が行われていた。それが17世紀末から18世紀にかけて、全領域にわたる運動へと変化するのである(112頁)。

 この「何度も繰り返される百姓一揆によって、幕府の年貢増徴政策は完全に破綻する」一方、「百姓身分であることを強調する百姓一揆のなかで、百姓たちは百姓とは何か、という自己認識を高めていく」(192頁)。徒党を組むにあたっても、必ずしも起請・神水が必要とされなくなっていく。「これは、神的権威を媒介にしなくとも百姓が一揆集団を形成できるようになったと評価することができる」(150頁)。
 百姓一揆の「目的とは百姓の成立を領主に訴願すること」であり(167頁)、「百姓一揆が村連合として組織されているのであり、個人の連合体ではないこと」もこの点に関係してくる(171頁)。
 こうした百姓たちの意識を支えた「仁政イデオロギー」は、「多くの場合、それら苛政を実行しているのは君側の奸である悪役人であり、本来的には情け深い仁君は、必ずや仁政を復活してくれるはずであるという論理構造を持っていた」(187頁)。
 ところで、「1780年代以前は、廻状による動員が一般的であった」(172頁)。しかし、天明飢饉あたりになると「張札」が動員方法となってくる。また「参加強制を伴う廻状は、18世紀前半まであまりなく、18世紀後半以降に一般的になった」(172頁)。「さらに19世紀の文化文政期になると、主たる動員方法が張札となり、廻状が廻された場合でも副次的なものであることが多くなった」(172頁)。「廻し状と張り札の相違は、前者が村継ぎとして村共同体に呼びかけるのに対し、後者は多くの人々がみる場に文章を張り出すことにより、直接個人に呼びかけるものである」(172頁)。
 ここには村共同体の変化がかかわっている。

農村を舞台とする百姓一揆でも張り札による動員が増えてきたということは、村共同体を利用しにくい状況が生まれてきたこと意味する。それは農民層の分解の進展により、村役人・地主・高利貸しである豪農と小作・貧農に両極分解し、村内対立が激化したためであった(173頁)。

 そうしたなかから天保期に「世直し」という言葉が現れてくる。「この変化を闘争主体の問題からいえば、百姓一統の結合としての百姓一揆から、窮民連合の一揆・騒動への変化に対応していると考えられるのである」(174頁)。それで、幕末を迎えることになるのだが、維新政府は仁政思想を解体し、「新政府反対一揆」では、百姓の作法が変化し、得物として農具を持ち出すことが少なくなり、鉄砲、刀、竹槍で武装するようになった。

百姓一揆とその作法 (歴史文化ライブラリー)

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