笠松宏至『徳政令』

 今頃、この名著を読んでいる。 われわれにとって法律というのはかなり身近なものであるはずなのであるけれど、法律そのものに身近に触れる機会というのはそうそうあるものではない。それでも、六法をひけばどんな法律があるのかわかるし、それなりに努力すれば法律の内容や解釈について知ることもできる。そして、憲法のいくつかの条文あたりになれば、誰でも(?)少しはその内容について知っている。
 では、昔にさかのぼったらどんなことになるだろう。日本の中世には、800カ条以上の法律があったことが知られているが、中世当時の人にとって「あたりまえの中世法は、あたりまえの中世人にとって、知られざる法にすぎなかった」(6頁)のだという。それどころか、「法の実在を当事者自らが立証して見せなければならないという、近代法の世界では夢にも考えられないことが、中世法の現実であった」(7頁)。
 ところが、「永仁の徳政令は、立法時点の中世社会、それもかなり辺境の庶民までもが一度はその名を聞いたほどの有名なる法律であった」というのである(4頁)。なぜ、そんなことがおこりえたのか?笠松によれば「徳政はもうだいぶ前からはじまっていた」(32頁)。たとえば、現存する徳政令が適用された判決文を見てみると、「判決が幕府徳政令だけを、唯一の法的根拠としている」わけではないことがわかる(33頁)。
 笠松は徳政令が徳政と言われるゆえんとして以下のようなところに注意をうながしている。「御家人の売ったものが御家人の手にもどった、ということになるだろう。もっと単純にいえば、それは「もとへもどる」という現象にすぎないのである。そして、もしこの、あるべきところへもどす(復古)政治こそが、徳政の本質であるとすれば、徳政と永仁五年の徳政令との間の違和感は、ほとんど消滅してしまうだろう」(54頁)。
 たとえば、当時の大法として「仏陀寄進の地、悔返すべからず」というのがあったという。要するに、いったん仏のものになったものは取り戻すことができない。そして「そうした、聖から俗に向けて、機会あるごとに繰り返された、仏物を人物からきり離し、所有の面での聖域化をはかろうとする主張は、しだいに俗法にも浸透する」(68頁)。こうしてものの世界のなかでは、人物とは一線を画すかたちで仏物(仏物・僧物)・神物という「ものの区分」がなされていた。もっとも、守護や地頭が仏物を没収したり、仏物が僧物へと私物化されて、人物に帰っていくということがしばしば生じており、それが徳政令の対象になった。
 あるいは、「他人和与の物」、つまり、主人への忠勤の結果得た土地を主人の子孫のものは取り返すことができないとされる一方で(公家法を継承)、「諸子割分の地」つまり、惣領ではない庶子の相続分である土地を親が悔返しが認められている(室町期には認められなくなるが)。いずれにせよ、ここでも戻る戻らないが裁判沙汰になっているのである。
 「たまたま何かの原因で失われていたものが、また何かの契機によって「本主」のもとへもどされていく。一度名義を変えてしまえば、もうその物権に対しては全く縁もゆかりもなくなってしまう現代社会とは違って「もどり」は中世人にとってとくに異常な現象ではなかったのである」(103頁)。
 また、そこには社会の変化もあった。笠松は消されてしまったという安達泰盛の弘安徳政を掘り起こす。「ものをほんらいあるべき界のうちに復帰させること、これを別の仕方で表現すれば、甲乙人から器量の人に返すこと、これが所領政策上の徳政、いわゆる徳政令の本質であったが」(123頁)、この甲乙人とは、凡下百姓のことであり、「既成の秩序からみれば、凡下百姓たちは「仏物」「神物」「人物」のどれとも、ほんらい無関係であるべき人びとであった」(125頁)。
 「従来とは全く違った撫民、それなしにはこの時代の徳政がありえなかったことに示されるように、はっきりと「田舎の法」の存在を意識し、それとのかかわり合いを考えた上で「中央の法」が生まれる、という時代がようやくはじまったのである。両者がどんなにかけ離れた法理をもっていても、それぞれに効力をもつことができた時代が終わりに近づいたといってもよいかもしれない」(208頁)。

 徳政令の詳細は説明しきれないので、これを引っ張っておくことでご容赦。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-tokusei.htm

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)