例外状態としての一揆

 やっとのこと今村仁司の『排除の構造』を引っ張り出せたので、目次をながめていたら勝俣鎮夫『一揆』が第三項排除の一例として取り上げられていた。しかし、アガンベンと見比べながら思うに、まず一揆を結ぶということは族縁的集団の外に出て集団を作るということであり、具体的なスケープゴートを必要としない一方、この集団が特別な力を持つと見なされた。また、このときに行う一味神水も、神と人間の不分明な領域に入り込むこと解すことができるだろうから、当の集団自体を例外化し、それでもって特別な力をつくり出そうとするところに眼目があるように思える。
 たとえば、「これら寺社の強訴の前提に一味同心という一揆が存在し、その一揆がさきにみたように通常の理非をこえた「理」をつくりあげることができる主張とみることができる」(45頁)。あるいは、自力救済行為に代わって成立してくる喧嘩両成敗法は、理非にかかわりなく、当事者双方を死刑にする法であり、在地領主の一揆契約上に最初にあらわれてくる。これって、いわば例外的な権力の行使だし、殺される側も理非を越えているわけだから、それは犠牲から排除されているということにならないか?
 あるいは、武士団相互や惣と外部の武力闘争の解決の手段として利用されたという「解死人」という仕組み。「下手人のかわりにが下手人の所属する集団のメンバーの引き渡しをもってこれに代わるもので、その引き渡されたものを、相手の処分にゆだねることを認めた降参の意思表示であった。この慣習は解死人の語が示すように、引き渡された人間を殺さないことが原則であったが、殺されてもよいという意思表示であったから復讐の対象として殺される場合もあった」(89頁)。すでに、一味神水したうえに集団内部で死んだと見なされた者が差し出されるわけだから、この「解死人」はやはり犠牲から排除されてしまっているのではないか。
 思いつき、とりあえず今村本の一通り読み返してみなければ。

排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)

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一揆 (岩波新書)

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