『土一揆の時代』

 ちょっと目算が外れたが、入れておいてよい知識だと思った。

もともと「土一揆」という中世の言葉は、徳政を要求して蜂起する土民の集団にも、戦争のために動員された土民の集団にも区別なく用いられた(7頁)。
乱世の民衆は積極的に戦況に介入し、有利なほうに味方しようとしていた(170頁)。

 他方で、そこには秩序問題があった。

悪党、土一揆足軽が時代こそ違え、共に秩序維持・支配を行うと宣言している点は注目すべきものといえよう(101頁)。

 16世紀後半、大名の家中が成立し、統一政権が成立し、兵農分離が進むにつれ、「一揆」は百姓がなすものと見られるようになり、さらに減少していく。しかし、その後も侍たちが百姓を動員する一揆が見られないわけではない。たとえば、大阪の陣に伴いそうした一揆が起こったし、天草の乱も「一揆」と見られた。
 その後、17世紀後半になって、「百姓一揆」と呼ばれる村民の活動が目立つようになる。ただし、「18世紀後半に至るまで、村の住民たちの、領主の非法を訴えたり、年貢減免を要求したりする、一致団結した運動は原則として「一揆」とは呼ばれなかった」(203頁)。「百姓一揆はむしろ武装を象徴と換えることによって、道修を目的とする集団であることをより歴然と強調しているということができる」(204頁)。

土一揆の時代 (歴史文化ライブラリー)

土一揆の時代 (歴史文化ライブラリー)