牧原憲夫『客分と国民のあいだ』

 安丸本の次に読んでみようと思ったのはコレ。こちらも出版時に読んで以来の再訪。自分でこんな文脈を用意して再読することになるとは思ってもみなかった。ちょっと考えてみれば、当たり前なわけだが、とりわけ日本のような後進「国民国家」にあっては、「国民国家」を作ったからといって、それに見合った「国民」が用意されているとはかぎらない。むしろ、「国民国家」の創設と同時に「国民」をも創り出さなければならない。この本は、そうした「国民」がどこまで作り出せたか、あるいは出せなかったかを論じた本だ。「客分」というのは、さしあたり「国民」足りえなかった民衆のことだと思ってもらえばいい。

 新政府への民衆への期待がどのように変容していったかは、以下の安丸本からの引用が明晰。幕府は次第に民衆から見限られていく。

無力になり、権力支配の維持のためにあがいている現実の幕府と、幻想的権威性としての幕藩制が対比されて、現実の幕府権力から人心の離脱がたちまち顕著なものになっていったのである(411頁)。
このような意識は、文久以降の幕末の政治情勢のなかでは、一方では、個々の幕閣当事者をこえて、将軍と幕府そのものへの敵意となり、他方で、これに対応して、尊攘派長州藩への好意や期待となっていった(413頁)。

 
 しかし、現実の維新政府は、むしろ世直し一揆に敵対する「豪農商層の利害につく絶対主義権力」であった。そこで現実の新政府は一種の「異人」として表象されたのだという。

こうして、明治初年の一揆では、近世の百姓一揆のように、民衆の生きている”世界”の全体性のなかから特定の悪役が反価値として措定され除去されるのではなく、維新政権とその諸政策とが全体として民衆の生きている”世界”を脅かす〈世界〉・敵対者・反価値とされた。そのさい、維新政権とその諸政策とが、「異人」・「耶蘇教」と結びつけて意識されたことは重要であろう。「異人」とは、民衆の幻想的共同性の世界にたいしてもともと〈他者〉であり、そのゆえに、その存在そのものによって民衆の幻想的共同性の世界を脅かしている絶対的な〈他者〉である。それは、民衆の馴れ親しんだ共同性の世界に存在しないような怪異な魔術的威力と邪悪な意志とをもって、民衆の伝統的共同性の世界をうかがっている。そのため、民衆はいま、理解も統御もできない敵意にみちた威力のまえに、ほとんどその裸身をさらしているのである」(434頁)。

 牧原はこれを次のように説明している。「近代国家における「自由放任」とは、知者と富者がともに”強者としての責務”から開放され「傲慢自然」になれること、すなわち”仁政からの解放”がその内実だったことも、いまやあきらかだろう」(74頁)。つまり、知者や富者がその職分に応じて責任を果たすことなく、暴利をむさぼることが許容されるような社会が到来したというわけだ。「仁政と客分を否定する論理は、西欧の政治・経済論からだけでなく、国学のなかからも生まれてきたのであり、幕末を生き抜いてきた富裕な地域指導者層にとって、福沢の呼びかけはさして違和感がなかったといえよう」(78頁)。

 そして、それは豪農層が主たる担い手であった自由民権運動にあっても同様であった。

つまり、自由民権運動は、政府に向かって「国民としての権利」を要求すると同時に、食客・死民の如き民衆に向かって「国民としての自覚」を喚起する、典型的な国民主義の運動であり、近代国民国家の建設という課題意識において、明治政府や福沢と共通の基盤にたっていたのである(84頁)。---したがって、民権派は仁政に対しても否定的だった(85頁)。---。客分とは権力に対して自律した存在なのだ(86頁)。---。つまるところ、自由民権運動もまた近代国民国家の創出をめざしていたのであり、民衆の求める「政事」は、政治的に敵対していた明治政府と民権運動のどちらからも否認されるほかなかったのである(87頁)。

 
 にもかかわらず、民権派の議論が、それなりに民衆を動員できたのは、その祝祭的性格と、政府を悪役に見立てるという一点において双方の利害が一致しているという点にあった。

民権派の政府批判の言動に、民衆は自分たちの不満が代弁されていると感じたのだ。民権派はそれを「国会」に結びつけようとした(91頁)
「反上抗官」の一点で、民権運動は民衆の鬱屈したエネルギーを自らの側によびこむことに成功し、政府に深刻なインパクトを与えた。ただしそれは、「主権者としての政治」と「客分としての政事」という異質な志向・理念の共振がうみだした<スパーク>であり、民衆の仁政観念・客分意識はなお保持された(131頁)。

 民権派が開いた二つの国民化の回路のうち、祝祭的性格は、民権派のみならず、政府が民衆を動員し、「国民化する」装置ともなった。たとえば、日清日露の祝勝会や憲法発布のお祭り騒ぎがそれにあたる。しかし、皮肉なことに明治憲法は、選挙権一つをとってみても分かるように、大半の民衆を国民から締めだすことになってしまった。

つまり、この国の住人の大多数は、憲法の発布でかえって「国民」になれなくなってしまったのである。---逆にいえば、経済的な強者が同時に政治的な強者になることが制度的に保障されたわけだ(180頁)。

そこで編み出されたのが「臣民」という概念である。

社会主義の危険はともかく、帝国憲法体制が貧富の差を政治的分断にまで拡大したために、民衆の客分意識を払拭させるのますます困難になったのはあきらかだった」181.「制限選挙のもとで、”非-国民”を国家に統合するためにこれほど好都合な観念はない。国家の一員であることを義務と意識する「臣民」はまさに「近代」の所産なのである(182頁)。
制度的に”非-国民”でしかない民衆の、政治参加させることなしに「国家」に包摂し「われわれ日本国民」を実感させるうえで、これにまさる回路がありえただろうか。客分であることが必ずしも国民化の障害ではなくなったのである(183頁)。

 だが、こうした国民国家の推進は、地方やコミュニティの解体をまねき、従来の「徳義の観念」の衰退を招いた。

地域的・人間的結合関係が解体し「徳義の力」が失われたとき、かつてのような「抵抗力」、すなわち「主を持たじ」の気骨、客分に自足した矜持を保つのは至難であろう。自己のアイデンティティさえ揺るがざるをえない。しかも、競争社会では弱者は仲間をこそ蹴落として這い上がるほかなく、人びとは自分だけの「家内安全」や「商売繁盛」を願うしかないのだ。それだけではない。「自由競争の文化のなかでいきねばならなかった労働者ほど、孤立を媒介にして企業社会や国家に統合されてゆく」と、熊沢誠氏がするどく指摘するように、アイデンティティの動揺は一体感への渇望をつよめる。日清・日露の戦争での提灯行列やさまざまな国家行事における過度なまでのお祭り騒ぎも、そうした民衆の不安定感のゆえにいっそう盛りあがってしまったように思われる(196頁)。

 そこで、「国民化」の回路は祝祭的なものと主体的なものとの二つにわかれていくことになる。すなわち、

ひとつは、客分意識を保持したまま祝祭空間のなかで国民化する形であり、もうひとつは、そうした民衆にいらだちを感じ、より主体的に国民になろうとする形である。前者は、選挙権のないことにもさして不満をもたず、それでいて非常時には熱烈な「国民」となった。後者の流れは、青年団運動や農本主義だけでなく、労働運動・女性運動などにも顕著にみられた(202頁)。

 他方で、徳義の観念はより狭い「私」の世界に残っていくことになった。

結局、近代における徳義の観念は、国家レベルでの公共性を律する力を失ったばかりか、「公」への回路を断念した「私」の世界で、しかも非合法のあやうさを伴いつつ、かろうじて存在するしかなかった。だが反面で、それは小空間にたてこもったからこそ、したたかに生きつづけたともいえよう(210頁)。

 だが、こうした方向は行きづまりをみせ、政府は方向転換を余儀なくされる。

だが、米騒動は選挙権拡大と社会政策採用の契機となり、結果として挙国一致の制度的前提を創り出した。これは国家が仁政の担い手として、さらには社会的対立の仲裁者としてふたたび登場したことを意味する。図式的に示せば、仁政観念と客分が結合していた近世、客分でありながら仁政が否定された近代前期、仁政が公認され民衆が客分でなくなった近代後期、ということになろうか(234頁)。

 つまり、社会政策的にある種の反動が生じてくるのであり、それがファシズムと共鳴していくことになる*1

矜持をなくした客分意識や仁政観念とファシズムの親和性は否定できない(234頁)。

 さて、次は農本主義思想のおさらいでもしてみたいのだがもう時間切れかな。

客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)

日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)

*1:このあたりの顛末は、さしあたりこれを参照。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20080114/p2