安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』

 いくつかの本を読むうちに、改めてこの本を読まずばなるまいということになって再読。やっぱり面白い。いま読むと、この話からM・ウォルツアーのこの本のことを思い浮かべずにはいられない*1。あるいは、この本とからませてみるのも悪くない*2。いずれにせよ、手近なところにある道徳は、人々を既存の体制に封じ込めるための装置であると同時に、限界をはらみつつもそうした体制に抗うための道具でもあるのだ。

こうした通俗道徳の広汎な人々に対する強い規制力は、たんに上からの力の教育・宣伝・強制だけによってうみだしうるものではない。その意味で、これら諸徳目が強い規制力をもちえたいま一つの根拠を、それがある歴史的な発展段階における広汎な民衆の自己形成・自己解放の努力がこめられる歴史的・具体的な形態であった、ということにもとめなければならないと思う。近世中期以降の民衆的諸思想の展開過程を調べてゆくと、あたらしい思想形成の努力は、例外なくこうした通俗道徳の主張に結果している。これらの民衆的諸思想は、近代日本社会形成期の社会的激動の渦中における広汎な民衆の自己形成・自己確立の努力を意味していたが、この民衆の努力は、通俗道徳的理想像の確立をめざすという形態を通してなされたのである(18頁)。

 そして、安丸が通俗道徳と呼ぶ民衆思想が展開するのは、町人においては元禄・亨保期以降のことであり(たとえば、石門心学)、農村部も含めて全民族的な規模で展開されたのは(たとえば、二宮尊徳)、「近世封建社会の危機もようやくふかまった十八世紀末(天明・寛政期)以降であり、とりわけ文化・文政期以来のことであった」(28頁)。そして、いずれにせよ、その背景は、貨幣経済の浸透に伴う、「「家」の没落の恐怖感」があったのだという。

きわめて多様なこの時代の民衆思想も、実践道徳としてみれば、勤勉・倹約・和合に要約されようが、人々に否応なく思想形成をうながしたのは、こうした徳性を身につけなければただちに自分の家なり村なりが没落してしまうという客観的事情だった(31頁)。

 こうした通俗道徳はきわめて「唯心論」的であり、貧困のような問題を体制や高利貸し資本による収奪の問題へ結びつけるかわりに、民衆の生活態度に結びつけてしまうという意味において、極めてイデオロギー的な欺瞞を含んだものではあったのだが、その一方で、「その時代の広汎な民衆の自己形成−自己鍛錬の要求にそったものだった」(38頁)。実際、「このてんで、ことに重要なのは、農業や商業という産業活動の道徳的正当性が強く主張されたことである」(57頁)。このあたりに、ウェーバーフーコーを読み込むことはそれほど難しいことではあるまい。

 こうした通俗道徳の流布に寄与したのは、豪農、地主、村役人といった、民俗的な習慣から相対的に遊離した層であった。ちなみに、こうした村落支配者層はのちに自由民権運動の主たる担い手になる。すなわち、

それは、通俗道徳的生活規律は封建思想・前近代思想一般に解消すべきものではなく、近代社会成立過程にあらわれた特有の意識形態であること、この意識形態は、支配階級のイデオロギーである儒教道徳を通俗化しつつ村落支配者層を通じて一般民衆にまで下降せしめたものという規定性をもちながら、しかもじつは民俗的習慣を変革させて広汎な民衆をあらたな生活規範−自己鍛錬へとかりたてる具体的な形態であったことなどである(49-50頁)。

 とはいえ、こうした通俗的道徳が唯心的なものであるかぎり、その妥当性においても限界があった。問題はすべて個人の在り方へと換言されてしまい、天下国家を論じ、体制そのものを問題化していくことができないからだ。たとえば、

梅岩の処方箋は、鍛えられた人格に媒介されるときには、狭い共同社会のなかで他人を閑暇・変化してあらたな生活規律を樹立できよう。だが、それほど鍛えられた人格に媒介されようとも、このような自己の力は、家や村のような小共同体の外にはおよびにくい(79頁)。

 しかも、安丸が西田天香を例に挙げるように、

近代社会の展開にともなって利害対立や生存競争がますます一般化すると、人間の道徳や良心はその過程にまきこまれて無力になり、利害対立や生存競争のにない手としての利己的主体と普遍的人間的道徳のにない手としての価値的主体との分裂が決定的なものになってゆかざるをえない(87頁)。

 このとき、通俗道徳はただのタテマエにすぎなくなっていくだろう。

その結果、貧富をうみだす客観的な仕組みはたえず見えにくいものになってゆき、貧乏で不幸な人間は、富や幸福の次元で敗北するとともに、道徳の次元でも敗北することとなり、無力感と諦観のシニシズムが社会底辺部に鬱積されてゆくことになるだろう」。「そうなってくると、通俗道徳は民衆の生活を制約しているさまざまな条件を無視し隠蔽する非人間的な強制となり、強力で普遍性をもった虚偽意識の体系が成立する。そこでは、民衆思想の鬱勃とした可能性やヒューマニティは喪失せざるをえない(109頁)。
こうした変化のなかでもとりわけ重要なのは、かつての民衆思想がもっていた民衆の内面的自発性へのよびかけが失われたことではなかろうか(110頁)。

 だが、このとき通俗道徳は両刃の剣ともなる。

近世後期から明示にかけての民衆的な立場からの社会批判は、儒教道徳や通俗道徳の純粋化という観点からなされることが多かった。ごく一般的にいって、もともとは支配階級のイデオロギー的武器である儒教キリスト教などは、その教義の理想主義的側面を純粋化して支配階級の現実に適用してみれば、広汎な民衆に批判の武器をあたえるものだった(88頁)。

 なぜ、えらそうにしているオマエらは通俗道徳を実践していないのだというわけである。

だから、タテマエとしては権力者をうやまい服従するように教えられていたとしても、苛酷で不正で奢侈におぼれている役人や高利貸を見るごとに秘められた憤りが内心に蓄積されてゆき、みずから受容している道徳律を基準として批判的な目で支配階級を見るようになってゆく。支配階級の教える道徳をタテマエどおりうけいいれ真摯な自己規律を実践しておればおるほど、その道徳律をタテにとった支配階級にたいする批判はきびしいものになる。私は、近世から明治にかけての民衆闘争を支える論理は、こうした道徳主義であったと思う(120頁)。
儒教道徳の普遍主義的側面を民衆の立場にたって実践化してゆけば、変革的な論理がうまれざるをえないのである(122頁)。

 他方で、これまで何冊かの本をとおして確認してきたように、一揆をその典型として、民衆のなかには変革を待望するような非日常的な意識が埋め込まれていた。

日本の民衆には、おそらくもっとも原始的な時代以来の変革を待望する意識の伝統があり、それは、民衆生活が不安定になってくるとしだいにふくれあがっていった。そのような意識の伝統は、「ミロクの世」観念にも、「おかげまいり」や「ええじゃないか」にも、さまざまのはやり神や御料信仰のなかにも表現されている(122頁)。

 こうした変革の希求と道徳主義が結びつくところに一揆や打ちこわしが生じる。

そして、こうした変革を肯定し待望する意識の伝統と前述したきびしい道徳主義が結合するところに、一揆や打ちこわしの巨大ね政治的社会的エネルギーがうまれたのではなかろうか。そのばあい、支配者にも道徳のきびしい実践を要求する論理は、運動を支える論理としての一貫性と説得性をもっているが、広汎な大衆をいっきょにかつ熱狂的に運動に参加させるてんでは弱いだろう。反対に、非日常的な変革大望の意識の爆発は、虚内で急速に伝播するエネルギーをともなうけれども、組織性、論理性、持続性をもちにくい。そこで一揆や打ちこわしの指導部はきびしい自己規律に鍛えぬかれた計画性、組織力、説得力などをもった強靱な人々からなり、そのまわりに非日常的な形態で憤懣を爆発させた広汎な大衆が結集してくるというふうに、両者がうまく結合することで一揆や打ちこわしは巨大な政治的エネルギーとなりえたのではないだろうか(123-4頁)。

 しかし、こうした運動は、新しい社会や政治体制を構想するうえでは極めて貧弱なものとならざるをえなかった。なぜなら、民衆はそうしたものを編み出す素材を持っていなかったからである。

だが、彼らは、封建的社会体制以外の社会体制を構想するどのような思考素材(思想史的伝統)ももたないから、封建的社会体制を自明の秩序原理としてうけいれたままでこのように主張しているのである。だから、実質的にはすでに自由な小商品生産者たちからなる市民社会的な秩序を求めていながら、それにふさわしい権力構想をみいだすことができていないのだ(125頁)。

 安丸はこうした限界の一端を日本の伝統的な宗教観念の未熟さに求めている。

幕藩体制とも天皇制国家とも異なった社会体制を民衆が独自に構想しようとすれば、それはかならず独自の世界観にもとづいたものでなければならない。現在の社会秩序は精神的なものの権威にもとづいて成立しているという転倒した意識が支配しているために、民衆は至高の精神的権威を自分のうちに樹立したときにのみ独自の社会体制を構想しうるのである。そして、近代社会成立期においては、このような精神的権威を民衆が獲得するためには、それが宗教的形態をとることはほとんど不可避であったろう(130頁)。
そして、宗教的異端の未成熟というこの特質は、近代日本のイデオロギー史的特質を根本から規定するものであると考える(132頁)。

 たとえば、

初期の天理教丸山教などにふくまれていた世直し的側面なども必然的に失われ、これらの宗教も近代日本の秩序原理にすすんで随順しようとする。また、民衆的思想運動は、あらたな農業技術の導入の先頭にたっていたのだが、こうした性格も失われてゆく(110頁)。
つまり、日本の伝統的意識において、神秘的体験を媒介として宗教的権威が成立すると、それは現人神天皇のミニチュア版になるのである(133頁)。

 さて、こうした状況を背景として起こる一揆がどのようなものであったかと言えば、すでに確認したように、既存の通俗道徳観念のもとでは社会的弱者は同時に道徳的劣位者でもあり、いわば彼ら彼女らは常に我慢を強いられる立場に置かれている。だから、一揆は一種のルサンチマンの発露というかたちをとることになる。

しかし、幕藩制のような社会では、一方では権力そのものが幻想的共同性の世界を権威主義的かつ独占的に代表しているがゆえに、他方では権威主義的抑圧原理が現実に貫徹しているがゆえに、人々の日常的な意識と、その意識の底に抑圧されている解放への希求や活動性とのあいだには、大きな懸隔と断絶があると思われる。このような事情のもとで、抑圧がある極限的な状況にまで強化されるなら、人々は、ほとんど不可避的に、これまで抑圧してきたみずからの憤激や怨恨や欲求にある積極的な表現をあたえるであろう。そのさい、人々がみずから抑圧してきた憤激や怨恨や欲求は、きわめて厖大なものであるとともに、幕藩体制の日常的活動様式のなかだえは表現されえない非合理的なものだから、百姓一揆のような爆発的で暴動的な闘争形態が、その表現にふさわしいであろう(248頁)。

ルサンチマンの発露は、一方で、憤懣の矛先として措定された悪役に向けられ、相対する民衆が正義を体現するというかたちで展開していくことになる。ただし、後述するように、これが限界を持つことは見やすい。

いずれのばあいにも、民衆の生きる幻想的共同性の世界の総体性のなかから、特定の悪役が選びだされ、議論の余地のない絶対悪として措定され明示されているわけである。誰が悪人であるかは、蜂起にさきだっても人々に意識されていたであろうが、いまいやそれは誰の眼にも自明なものとなっており、社会的に承認されたものになっている。攻撃対象となった収奪派の役人が罷免されることは、右のような状況の追認であり確認である(260頁)。
「そして、この悪役を端的に措定するかぎりで、蜂起した集団は、その社会の正義を体現するものとなり、「仁政」的世界を代表する権威と威力をひきうけてしまうことになる。こうなってくると、彼我の力関係が逆転して、藩主なども、これら収奪派の悪政と悪徳ぶりをい実態として認めざるをえず、収奪派がやったと意識されているさまざまな収奪策は撤回されざるをえなくなる。もっとも、こうした事情が藩権力の側から利用されるばあいには、特定の悪役に責任をおしつけることが、農民の攻撃の矛先を藩権力そのものからそらる効果をもつことになろう(257頁)。

 つまり、ここでは「公」の体現者が公儀から、民衆へと逆転しているのである。

民衆のイメージしている世界像が、さしあたっては幕藩体制的世界とはべつのものではないにもかかわらず、民衆が独自の集団を構成し、権威性と信念とをもってみずからの願望を表現してゆくという事実そのものが、幕藩体制の支配の原理に抵触しており、幕藩制社会に内包された真の危機をあらわずものであったといえよう(271-2頁)。

 他方で、日常性を踏み越えて非日常制へと到るためには、具体的に公を体現する「無双」の者が民衆のなかから登場してくることが必要であった。

だが、重要なのは、こうした資質のうえにのことではあるが、蜂起の指導者たちは、みずからの生命をすてる覚悟とひきかえに、じつは「古今無双の大たん者」となるということである。一揆の指導者にとって、日常的生活者としての自己を否定する(=死を覚悟する)ということは、彼が生きている共同性の全体についての責任をひきうけるものになるということであり、なにが正義でありなにが悪であるかについて、彼個人についてのさまざまの配慮や恐れをふりすてて自由にかたる人間になるということであった。そのばあいに、百姓一揆もその指導者も、幕藩体制とは異なった社会秩序を思いえがくものでなかったから、彼は、支配階級にとっても被支配階級にとっても共通に承認されねばならない公的な正統性原理を要求しているのだと信ずることができた(318-9頁)。

 だが、すでに少しふれたように、悪役を措定するということは体制そのものを問題にできないことをも意味する。

そのてんでは、百姓一揆が既存の支配体制のなかから特定の悪役を除去する性格のものであったために、日本の民衆が支配階級の供給する世界像からみずからの民衆的世界像を分立させ自立させることが困難になっているのである(294頁)。

 そのため、一揆はまた極めて短期的なものであったのだという。

だが、百姓一揆における集団的効用は、二、三日からせいぜい数日程度の帰還した持続しなかった。すでにのべたように、百姓一揆は、幕藩制という社会秩序そのものは自明の前提として、そこから特定の悪役を措定し除去しようとするものであったから、そうした特定の悪役が除去されたものとしての幕藩制支配は、容易にふたたび受容され、蜂起した集団はたちまち解体してしまった(258頁)。

 安丸は、そこに一揆や打ちこわしの非日常的性格を見ている。

オージー的な祭りは、前近代社会において広汎に存在するものであったこと、そこでは、日常生活者としての自己が逢着されて、人々は熱狂する集団と融合して日常の社会制度や規範の外へでてしまうこと、そのさいに、日常的には抑圧させられ屈折させられていた欲求や感性が爆発的に表現されて、それが世直し的意味をもはらみうること、そうして、いったんそうした集団的熱狂がはじまると、誰もがそれにさからえないことなどは、興味深い事実である。前近代社会の民衆は、日常生活における鬱屈した抑圧状況の対極で、こういたオージー的形態において共同性を回復するものであり、それが独特の「世論」を形成して支配階級をも制約したのでもあるが、また、それがしばしば共同体の祭りとして既存の社会制度のなかにとりこまれて、社会的には無害なものに転化させられていたのである(395頁)。

 だから、「公」を体現する「無双の者」の行く末もまた両義的だ。

処刑された一揆指導者が怨霊となる事例の多いことは、彼がその生命とひきかえに措定した公的な正義が、一揆の解体後にもなんらかのかたたいで生きつづけたことを意味している。しかし、そうした正義が、処刑された指導者の怨霊という特殊なかたちを通して主張されることは、社会的現実とそうした正義とのあいだに大きな葛藤があり、民衆は無力な受動性においてこの葛藤にさらされていることを意味している。このように考えるなら、一揆指導者が怨霊となるばあいが多いことは、一揆指導者が措定した公的な正義が、彼の生命とひきかえにかろうじて提示されつづけてはいるが、公然としたものにも安定したものにもなっていないことをものがたっている(330頁)。

 こうして、幕末から明治初にかけての一揆とそれを可能にする民衆意識が確認されていくわけだが、こうした運動の可能性条件の一つには、ここまでにも何度か確認してきた。村落の自立性がある。さて、では、これは明治以降どうなっていくのかという話になるわけですが---。

このまとまりとは、それぞれの領主権に規定された共通の領域経済のもとで、農民たちが領主階級から空間的に分離された村に住み、村の「惣百姓」としての法的制度的統一性をもっているということであった。このばあいの村は、生産と生活との共同性の場であるとともに、村請制村落として支配体制の一環をも構成しており、このような村共同体の機能に対応して、農民たちは、村の「寄合」とそこでの「申合」を通じて、その独自の利害を表現してゆくことができた。こうした特質が、在地領主が日常的かつ全人格的に農民を支配して割拠的に君臨し、武士と農民との身分的区別もあいまいで流動的な中世社会に対比するとき、きわめて特徴的なものであることはいうまでもない(306頁)。

日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)

日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)