兵藤裕己『声の国民国家・日本』

 この人の前著、買ったままどこかに埋もれているはずなのをやっと見つけ出して読む。これも面白い。この話ですべて説明がつくのかどうかは議論の余地があるだろうし、この「国民」って何だろうと思ってしまうところもあるのだが(だから、括弧付きなんでしょうけど)、「国民」形成ないし、近代の国民叙事詩の誕生にあたっては、芸能のなかでも卑賤な部類に位置づけられていた浪花節という「声の文化」が、文字に依拠しつつも大きな役割を果たした、というのはかなり説得力がある。
 たとえば、その浪花節で一番、好んで聞かれていたというのが、「仇討物」であり、なによりも「赤穂義士伝」だったという。そして、戦前の日本で「赤穂義士伝」に類する事件があったとすれば、それは「2/26事件」であるという佐藤忠男の指摘があり、実際にも事件の報道は広く国民の共感を得ている。他方、自然主義文学や社会主義は、一部のインテリには受容されても、ひろく一般大衆の支持を得ることが出来ない。読みながら、あらためて渡辺京二さんあたりの仕事を再評価しなければいけないなという思いにかられた。

近世の封建国家の多元的な忠孝のモラルから、近代の国民国家の一元的な忠孝のモラルへ、その変換装置として機能したのが、大衆社会に流通・浸透した物語だった(214頁)。
社会公認のモラルが、社会から逸脱した部分によって典型的に担われてゆく。日本社会の暗部ともいえる部分が、歴史的にみてもっともラディカルな日本的モラルの担い手である。日本社会の暗部ともいえる部分が、歴史的にみてもっともラディカルな日本的モラルの担い手である。かれらのアジテートする擬似的ファミリーの物語が、社会からとりのこされた下層の大衆の共同性をすくいあげてゆく。そして注意したいのは、日本近代の「国民」という観念は、そのような大衆社会に流通・浸透した物語と不可分に形成されたということである(208頁)。
天皇を「親」として受容することで、天皇の「赤子」としての国民の平等・解放幻想がもたらされる。日本「国民」であることのモラルは、しばしば国民の異分子にたいする排除の論理として作用するし、ときには現実のヒエラルキーにたいする暴力的な破壊の気分さえ醸成するだろう(208頁)。

〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代 (講談社学術文庫)

〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代 (講談社学術文庫)

あら、いつの間にか文庫になってた。まったく同じ内容なのかしら。