阿部謹也の世間論

 とりあえず、ヨーロッパ中世史の本は昔よく読んだのに、こっちの方はなんとなくいかがわしさが先にたって放置してきたところがある阿部謹也さんの世間論をとりあえず3冊ほど手近にあったもので読んでみる。いかがわしいというのは多分に先入観だったとは思ったけれど、「世間」という概念だけでひっぱるのはどうなのかしら。それから「世間」に類する現象のどこがどこまで日本に特殊かはもっと細かく見た方がよいような。
 たとえば、「世間」の特徴として1贈与と返礼、2長幼の序、3世間体を保つといったあたりが言及されるのだが、贈与と返礼の関係は基本的には義理人情という道徳意識として把握できるものだろう。また、世間が基本的に顔の見える具体的な人間関係の延長上にありながら、その関係は人格的なものではないというような話も、「家」のような概念を導入すればもっと立ち入った話ができるんじゃなかろうか。そうなるといろいろ先行研究だって出てくる。

重要なのはその際の人間は人格としてそれらのやりとりをしているのではないという点である。贈与・互酬関係における人間とはその人が置かれている場を示している存在であって、人格ではないのである(96頁)。

たとえば、世間体を気にしなければならないのは、当事者の問題が当事者を越えて当事者が抱えている具体的な人間関係に波及する(と考えてしまう)からで、ここから具体的な人間関係がそのまま人格的な関係として見られていないことがよく分かるし、だから、また公私の区別もつきにくい。そして、こうした波及性を媒介していく典型的な単位は「家」ということになると思う。あるいは、中根千枝は長幼の序(あるいは年功序列)の温床として、平等主義的な能力観に加えて、具体的な人間関係の長さを挙げている(儒教の影響もあると思いますが)*1。 
 他方、なるほどと思ったのは、世間は歴史の外にあって時間が流れないという話。顔の見える具体的な人間関係をベースに生きていくのであれば、たいていは同じことの繰り返し、大した変化はないわな。その感覚でものごとを決めてしまえば、先のことは今の問題の弥縫策にしかならなくて、真の意味での将来への構想はなかなか生まれて来んでしょうな。なんかいろんなところでこの手の事態を目の当たりにさせられているような気がするのだが---。

「世間」の中では時間は「今」しかないのです。時間が問題になるとき、ほとんどの場合、今が問題になっているのであって、来年や去年はその今の中で問題になるにすぎないのです(158頁)。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

近代化と世間―私が見たヨーロッパと日本 (朝日新書)

近代化と世間―私が見たヨーロッパと日本 (朝日新書)

*1:「事実、日本における、人間関係の機能の強弱は、実際の接触の長さ、激しさに比例しがちである。そしてこの要素こそが、往々にして、集団における個人の位置づけを決定する重要な要因となっているのである」(56頁)。

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)