想像界の肥大化:長井真理『内省の構造』ほか

 なにをいまごろだが、夭逝した才女、長井真理の『内省の構造』を読んでいる。ここでの知見がその後、どのように論じられていったのかはよく知らないけれど*1、これは面白い。
 ブランケンブルクが、「分裂病性」の妄想の背後に潜む基礎障碍を取り出すために非妄想性の患者を対象に選び、内省性の亢進した患者の特質を「自明性の喪失」と把握したことはよく知られているが*2、彼女は、ここでブランケンブルグが健康な精神生活に由来する最後の「補償可能性」として自明視した内省性の亢進に疑問の眼を向ける。それはほんとに健康な精神生活の延長上にあるものなのだろうか?すごく鋭いところをついてると思わずにはいられない。
 そして、彼女が症例から引き出すところによれば、「分裂病」の患者には二つのタイプの内省が見られるのだという。一つは通常の内省の延長に位置する「事後的内省」、もう一つは「同時的内省」と呼ばれ、その特徴は次のようなものであり、その絶え間ない発生が「自然さの欠如」に結びつくのであろうとされる*3

このタイプの自己観察では「事後的内省」の場合のように、何らかの体験をした後になって、自分自身へのふり返りとして観察が生じるわけではない。「事後的内省」においては、観察の眼は「すでに一定のしかたで世界へと現出してしまった自分」に向けられていたのに対して、ここでは、「まさに今、世界へと現出しつつある自分」に観察の眼が向けられている。ここでとらえられる自己は、「完了時制」の相のもとでの自己ではなく、今の瞬間における自己、自己自身との同時性における自己である。このような「自己観察」を、先に述べた「事後的内省」から区別して、「同時的内省」と名づけておきたい(87頁)。


 また、境界例については、その情動の障害として「見捨てられ抑うつ」(マスターソン)が指摘されるわけだが、彼女はそれを一種の「現前の形而上学」として説明しようとする。「見捨てられ抑うつ」とは、幼児期の母子関係に由来し、重要な他者が目前からいなくなると繰り返し落ち込んでしまうというような状態を言う。
 幼児には母親の不在と死の区別がつかないわけだけれど*4フロイトの「いない」「いた」という例の糸巻き遊びはこの区別を可能にし、ラカンにいわせれば象徴界への参入を印づける出来事となる。つまり、幼児は母の喪失を再現前可能なイメージで補うことができるようになる。
 それでいくと「見捨てられ抑うつ」へと陥る境界例の患者は象徴界へ参入する前の幼児に似ているということになる。「彼らにとっての孤独とは、もっぱら現前の欠如を指し、この孤独は現前の代理、他者の表象的再現前では癒されず、実物の他者の現前によってしか埋まらない」(126頁)。
 ところで、ここでいう現前だが、母の現前が問題化可能になるのは母の不在が可能になっているから、つまり、「母の不在なき十全な現前」なるものは、つねに痕跡として再現前を経由してしか見出すことができない。「だから、母の現前と再現前は実は母の不在によって同時に生み出されたと考えざるをえない」(130頁)。にもかかわらず、現前的他者にオリジナルの質を与えているのが、デリダのいうところの代補の働きに他ならない。境界例の患者は、この代補の営みが不充分なために、重要な他者の不在に耐えられず、たま、重要な他者のもとにあっても漠とした空虚感や内面的な欠如感を抱き続けていくことになる。
 となれば、ここから一歩先の話として、成田善弘の次の指摘もよく分かる。

分離個体化段階にせよ鏡像段階にせよ、そこには社会的身分や役割はまだ存在しない。境界例にとっての人間関係とは一対一の、それも社会的身分や役割を剥離した上で成立つ生身の二者関係である。三者関係の成立で社会が形成されるとすると、境界例には社会的感覚が欠けている(95頁)。

 そして、境界例の対人関係が鏡像段階に相当するのであれば、その自己は寸断され、他者と癒合状態におかれていることになるわけで、境界例ではしばしば分裂(スプリッティング)や投射性同一視が見られるというのもよく分かる話だ。鈴木茂によれば、彼らはしばしば相手の気分状態を忖度し、それに我がことのように反応してしまうのだが、その指摘は相手以上に言っている本人の気分状態にあてはまるように思われるのだという(98頁)。成田本の方から引用すれば、

強迫症者はその自我と発達の途上で投影同一視を自己の欲動のコントロールを用いる。彼らは自己の欲動を外界の対象に投影しておいて、その対象が満足を体験するように働きかけ、その対象の満足を通して自己の満足や安全をはかる。これがうまくいくと投影そのものが自己を再統合する機能を果たす。このように投影同一視が強迫症者において適応的に働く場合を適応的コントロールと呼ぶ。もし対象関係において投影同一視がうまく機能しない場合には、被害的不安が露呈し、ときにはそれに対する防衛として分裂機制が用いられたり、投影の引き受け手となった対象(全体的人格でなく部分対象とみなされる)を全能的に支配し振り回そうとする機制、すなわち全能的コントロールが用いられるようになる(19-20頁)。

 また、まず周囲の人物を善玉悪玉に色分けする傾向として現れてくるという「分裂(スプリッティング)」については、鈴木茂が次のように説明している。

これは、他者や事物の、望ましい側面との共振によって生じる心地良い自己の状態と、願わしくない他者イメージとの関係でひきおこされる深いな感情を帯びた自己の状態とを全く切り離して併存させる心理機制のことで、この対極的な二つの自己が急激に交代するところを見た者は強い印象に捉えられる(96頁)。

 そんな具合で、象徴界が十分成立していなければ、内と外の区別も曖昧になってしまうわけで、「内面的な」葛藤はそのまま外界にアクティング・アウトとして現れてしまう。だから、治療ではその間に割ってはいるものが必要になってくるのであり、成田は自らの治療モデルのなかで患者との面接室をアクティング・アウトを封じ込める「外界と内界の移行領域」(179頁)として位置づけている。

内省の構造―精神病理学的考察

内省の構造―精神病理学的考察

青年期境界例

青年期境界例

*1:たとえば、同様の問題を扱っていると思われる内海健は、分裂病の本質を、主体の構成契機に不可欠である企投と被投性の相補性の解離として把握しており、この解離のなかで分裂病者の時間体験は決定的な変容を被り、現在は過去や未来から疎隔/侵襲され、やせ細り、点化した今へと姿を変える。単純型分裂病における内省性の亢進は、病状であると同時に、この解離の状況レベル(自明性の喪失)から体験レベル(妄想)への拡大を防衛する機能を担うものとされる。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20081014/p1

*2:

自明性の喪失―分裂病の現象学

自明性の喪失―分裂病の現象学

*3:この概念は、後述する境界例のスプリッティングを論ずるにあたって鈴木茂が援用している。95頁を参照

*4:『ポネット』という映画を見ると、ポネットが死別した母を受け入れるために母の亡霊と出会わなければならないことを含めて、このあたりがよく描かれていると思う。

ポネット [DVD]

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