大澤真幸編『アキハバラ発』

 ゼミのテキストとして読み終えて。 編者でもある大澤真幸によれば、、酒鬼薔薇聖斗から宮崎勤事件に遡るまでの「動機不明の犯罪」と比べて、今回の秋葉原事件を「形而上学的深み」(ある種の宗教性)を欠いた「凡庸さ」ばかりが目立つ事件であるという。そう指摘されると、確かにそうだと言わざるをえない*1。大澤は、そこで神を引き合いにだすのだが、要するにここにあるのは自分に特別な意味づけを与えてくれるような「超越的な」源泉を引き合いにだせなくなってしまっているということであり、そこから浮上してくるのは、複数の論者が指摘しているように、「殺す相手は誰でもよかった」以前に、「(これをするのは)自分ではない誰でもよかった」(斎藤39頁)のではないかということである。

 ではその「殺す相手は誰でもよかった」についてだが、これまた、複数の論者が指摘しているように、「Kは、犯行前に携帯電話のアドレス帳やメールの送受信記録をすべて消去していた」(土井78頁)ことからもうかがわれるように、むしろ、「自分にとって「誰かではない誰かであれば、誰でもよかった」ということが重要なのではないか」(平野216頁)という指摘がもっともらしく思えた。
 
 実際、彼にはそれなりに友人がいたようであり、「容疑者Kは、彼自身が嘆くほど孤独な人間であったようにはみえない」(浅野189頁)。もっとも、この点については、これまた確認されているように、発達の過程での(典型的には母親に代表される)交換不可能な「重要な他者」の欠如という説明が用意されている。「子どもは自分の内部に「隣る人」という絶対的な信頼の対象の存在を感じることができるなら、「一人になれる」」。「心のなかにこのような「誰か」を持つことが将来、他者とのあいだに善き関係を作りあげるための核になる。もしこのような「誰か」を内部にもつことができないとすると、「孤独」をみずからの力で解消することに困難を抱えてしまうことを意味する」(芹沢34-5頁)。
 
 そのうえに、若者たちの「自らの境遇を「たまたまこうなった」という偶有性のもとでしか意識することができない」状況が指摘される。「僕の考えでは、その根底にあるのは、自分の人生がうまくいかないときに、自分と近い人間がうまいことやっている。オレとアイツとの間には大して差がなかったはずなのに、アイツはうまくいってオレはうまくいかない、こんんが偶然は許せない−という感情です」(東68頁))。非典型雇用下に置かれることは、とりわけそのような思いを強くしやすいであろう。

 「では、苛酷な偶有性にさらさればがら、自らのリアリティの減衰を避けるには、どうすればよいか。みずからの記述不可能な固有性などは断念し、あえて記述可能な匿名性を引き受けながら、再帰的コミュニケーションの中に身を投じ続けるほかはない」。 彼ら彼女らの「自己愛にとって最も重要なのが、再帰的コミュニケーションによって維持される「自己のリアリティ」であるということ」(斎藤42-3頁)。というわけで、若者たちの恒常的な承認不足の問題が指摘される。「社会のなかで承認の一般的枯渇という現象が起きているのですね。しかも、自分は承認されてないけれど、ほかの誰かは承認されているような気分になる」(大澤227頁)。

 まあ、社会学的な説明の性と言ってしまえばそれまでなのだが、どこまでも行っても事件を引き合いにするまでもなく日頃から論じられているような事柄ばかりが確認されていく有様は確かにこの事件の「凡庸さ」を印象づける。そんななかで、いささか強引な感じもしたが、ちょっと違った切り口から論じた浅野論文が興味深かった。大澤のいう「裏返しの世界系」という話(大澤221頁)が似たような指摘になのかもしれないが、「凡庸さ」を考えるヒントがあるとすればこのあたりなのかもしれない。たとえば、宗教は「社会」に膾炙した世界観を相対化する手段なわけだけれど、われわれはもう「社会」にたどりつけなくなってしまっているのかもしれないのだから。

 すでに、確認したように容疑者にはそれなりに友人がいた模様である。そこで、浅野はこう述べる。

彼の感じている孤独は、友人関係とはまったく別の場所に由来するのではないか、と。それは友人という親密な他者からの疎外によって感じられるのとは違う孤独、したがってどれほど親密な関係において充実していようとも癒されることのない孤独なのではないだろうか。彼が親しい友人たちとの関係から得ていた楽しみやよろこびは、おそらく、彼の内側に広がる孤独や絶望とは完全にすれちがってしまっており、彼の不遇感を癒すにはいたらなかったように思われる」(浅野190頁)。
 彼は、親密性の領域(恋愛)において自分が徹底的に疎外されてあることの苦痛を必死に訴えているのだが、その訴えにもかかわらず、実際のところ彼が疎外されているのは敬意と尊重との交換によって成り立つ領域、いわば公共性の領域なのである。---。彼の内側に広がっていた孤独は、公共的な領域からの排除に由来するものであり、親密な関係において感じられる孤独とは異なったものなのだ。---。公共性の領域において場所を確保するためのもっともありふれたやり方は労働であろう(浅野192-3頁)。

 「ここには公共性の問題から親密性のそれへのほとんど無意識の読み替えがあ」(197頁)り*2、浅野は、ここで、こうした圧力の源泉として、若者の友人関係の濃密化を挙げてくる。そして、「かけがえのない固有性よりも凡庸な共通性の方が大切であるような局面があるのだと」(200頁)、そう指摘していくつかの提言を行っている。  

 提言の内容自体はもっともなものだが、他方で、平野の次のような指摘が正鵠を得ているように思ってしまうのも確かだ。「断片化した承認空間相互のリスペクトもないから、個別の承認空間内の承認が、メタレベルの、社会一般にべったり広がっている承認空間において、どの程度意味をなすのか疑わしい」(平野227頁)。

 じゃあその先は?「公的舞台で話すことを諦めた人間によって社会的なものの内部でつぶやかれ、わめかれる愚痴や苦情は、ますます私的なもの、個人的なものとなっていくと同時に、汚い言葉になっていき、住民同士が互いにいがみ合うという事態に行き着く」(和田47頁)。まさにそうだよな。

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

*1:もっとも、一方で、大澤は「秋葉原事件を考える場合に重要なのは、犯人がきわめて普通の、凡庸でどこにでもいる青年であることです。だからこそ、彼に共感する人々がたくさん出てくる。しかし同時に、その犯罪には交渉可能性の余地などまったくないように思える。要するに、ものすごく近い普通の人なにに、同時に交渉不可能な他者として、とてつもない距離も感じるという二重性がある」(253頁)とも述べている。でも、殺人という極端なケースを度外視すれば、いまやそんな人どこにでもいくらでも転がっていないか。もしかして自分自身だって---。

*2:たとえば、この二つを区別すると、じゃあ容疑者は彼女がいても犯行に及んだのだろうかという疑問が生じてくるはずだが、これにはおそらく起こらなかったろうという答えが予想される。 これがまさに浅野の言うように、無意識の読み替えであるならば、誰かが引き起こした出来事を理解しようとして、われわれが何らかのかたちで参照してきた「主観的意味理解」という発想それ自体が通用しない事態が生じてきていると言わざるをえなくなるように思うのだが。