『≒草間彌生 わたし大好き』

 われわれはふだん自分が何事かに一心不乱にのめり込んでいる姿を人前ではなかなかみせないものだ*1。他方、スポーツ中継の面白さの一つは、画面を通してそうして没入する姿が人前にさらされてしまうところにある。なかでも面白いのは囲碁や将棋の中継だ。ふつうのスポーツの場合、この没入は競争相手とのあいだに生まれてくるという意味において、見る側もその志向対象を共有しやすい。ゴールをめざすにしろ、ボールを投げるにしろ、互いの動きを介して駆け引きがおこなわれる。たとえば、とりわけ番付上位での相撲の取り組みの楽しみの一端は、土俵にあがった力士が立ち会うまでに互いのテンションを高めていくところにあり、それが立ち会いで一気にはき出されてくるその緊迫感がたまらない*2
 でも、囲碁や将棋の場合、互いの外的な動きは互いの没入にもっと間接的にしか結びついてこない。相手がある手を打ったからといって即座に反応しなければならないわけではないし(持ち時間を使い切れば別だが)、相手がどんな手を打つかはかなりの程度読みきっているはずだ。そして、相手がうまい手を打ってくれば、直接それに反応するというよりは、以降の手筋を考えるためにますます自分の内側に引きこもっていくことになる。ときには、解説者の方まで明らかに入りこんでいることが分かったりして、こうなるとかなり面白いことになる。だって、みんな心ここにあらずという感じでテレビに映っているのだから。
 それと同じように、草間弥生はどこにいても変である。なんだか挙動不審である。そのおかしさは、どこへいってもどこにいっているのかよく分からない、どこか没入している感じから抜けきれないところにあるように思う。あのスゴク浮いた格好で平気な顔して人前に出ていくわけだし、自分で自分のことをスゴイとか、自分の作品はキレイだとかこれまた平然と言ってのけるのだ。そして、スタッフもそれにあわせるように「先生、スゴイ」とかおだてるようなことを言うのだが、だからといって、本人はそれを鼻にかけているというわけでもない。
 みていてこういう人のあしらい方ってあるんだろうなと思う。きっとかなり失礼なことを言っても平気(この監督、「晩年にこんな作品を作れたということは---」なんて聞いてたよ)、というか後を引かないだろう。でも、しつこいのは駄目。ある意味、周りのことなんてどうでもよくて、ただ、余計なノイズを排して、自分の作品を仕上げることだけが肝心。一種のオートポイエーシス・システムですな。
 歳を尋ねて怒られたりしながら、監督も同じような調子でカメラを回す。質問をして「黙ってて」とか言われても、そのまま待っていると、草間は答えるともなくその質問に答えるかのようなことをしゃべりはじめる。「撮らないで」と言われても、少しカメラを下げて撮り続ける。すると、しばらくしてそれに気づいた草間は「松本さん、撮ってもいいわよ」と言う。そんな草間の存在感は、なんか虫みたい、草間の一連の水玉作品とどことなく似ているな、そんな気がしてきた。
 

*1:なぜかは、例えばゴッフマンを参照のこと

*2:中継を見ていると、日本人のアナウンサーは、この緊迫感の高まりに水をささないようにぽつりぽつりと話をしていき、立ち会いから急に早口になる、といった具合に立ち会いを境にしてしゃべりのモードを変える。面白いことに、英語の相撲実況を聞いていると、この人は立ち会い前からひたすらまくしたてては「あっ立った」という感じでその後も同じ調子でしゃべり続けている。勝負は立ち会い以前から始まっており、ただし以前と以降とでは違った局面が展開するということがこみになっていないのだ。