七夜待

 長谷京が出ているのにちっとも話題にならず、他方で、河瀬直美が長谷京使うの?というのもあって、どんなものかしらんと思いつつみてきた。見てみたら、これも世界との和解は可能かという主題のヴァリエーションと言えないこともない。
 得意の長回しはなかったけど、ドキュメンタリー的な手法は健在。日本語、タイ語、フランス語と、登場人物たちがお互いにほとんど理解できない言語を使うところに成り立つ交わりは、ときに互いの距離をきわめて近いものにもする一方で、また遠いものにもする。たとえば、フランス人の男が、言葉のわからない長谷京を前に自分はゲイだとカミング・アウトするシーンなんてすごいと思ったけれど、監督からは、俳優にはどこへ行けみたいな指示は出しても、具体的な演技指導はなかったらしい。
 でも、なんだかなというのもあり。わけありでタイ観光にやってきた長谷京がホテルへ行こうとたまたま乗ったタクシーで人さらい気味にタイの片田舎へつれて行かれる。そこで、タイ式マッサージの修行をしていたフランス人に助けられ、彼がマッサージの指導を受けている女の家につれていかれるが、なぜかその女の旦那があのタクシー運転手らしい。そこで、彼女はタイ式マッサージを受け、眠る。目が覚めると隣に女の子どもが寝ている。
 話が流れていくなかで、ここに流れ着いてきたのは皆世界から疎外された人々だということがうかがわれてくる。件のフランス人は自分がゲイだということに向き合えず、ここにやってきて自分が世界と和解するために人々を癒やす学ぼうとしているらしい。そのマッサージを教える女は元は売春婦で、日本人との間にできた男の子がいる。この女と暮らしている男は兵士上がりで、片足をひきずっており、前の女との間にできた娘がいて、その娘は売春婦をしているらしい。
 そんな吹きだまりのような場所で、マッサージを受け、あるいは習い、眠るという流れのなかで変化が起きていく。河瀬のストーリーのなかで少年(に限らないが)いなくなるというのはよくあるパターンだが、ここでも父や日本のことを気にかける少年カイが消える。探し疲れて眠ってしまい目覚めた長谷京の前に少年が現れる。その長谷京がまた昼寝する男たちに子守歌をうたう。そんな暮らしがつづくなかで、タイの仏教のことを知るようになった長谷京がカイの出家に立ち会い、最後に川の流れが映し出されて終わる。
 マッサージを受けて、身体がほぐれて、眠って、それで出家に立ち会ったら、もう一度川は流れ始めるわけ?しかも、出家するということは世界から離れるということでもあろうが、タイでは少年期に出家するのは伝統的にはふつうのことで、修行の厳しさとは裏腹に還俗には寛容だ。それに、後の方で挿入される長谷京が日本にいた頃のカットを見ると、彼女の問題とやらが大したことじゃないように思えたりして。そんな単純な話なんかいな。ボクはむしろこの川の先には何があるんだろうと思ってしまうのだが。前作で抱いた違和感が今作でもっと大きくなったかな。もっとも、タイ式マッサージってどんなものか気になりましたが。