最終論文をのぞいた『儀礼としての相互行為』を読み返してみた。新訳が出てるから、書き込みだらけの旧訳とあわせて読んでみたら、たしかに、新訳の方が読みやすいことは読みやすいし、誤訳がなおっている部分もあるのだが、新訳は新訳で少なからずの誤訳があり、また、旧訳で何言ってるのかよく分からないところが、新訳でもほとんど同じように訳されてたりする。だから、原書もひっぱりだして三つ並べて読まなければならないのだが、手元にあるペーパーバック版は字が小さくておじさんには読むのがつらい。
とりあえず、簡単なメモを作っておくと、なんらかの個人が(とりわけ対面状況で)他人とかかわりながら何らかの目標か関心事を達成しようとするとき、ただ単にそれを追求するだけでなく、追求するにあたって相手とどのように関わるかという道徳的な問題が生じてくる。
つまり、個人(人物・人格)が一定の状況で他の人物と関わりをもつとき、互いに道徳的に期待されることが帰属され、何らかの役割や立場を引き受けることになる*1。各人物がこうして帰属されてくる期待を「自尊心」をもって維持、再生産することで成立するのが「体面」である*2。言い換えるなら、個人は体面を保つことで、次の選択の余地を確保し、自らのアイデンティティを確認することができる。ゴッフマンはこれを社会化と呼んでいる。
各自は、当然ながら、その都度、要請されてくる期待につねに応えることができるとはかぎらない。つまり、体面を保つにあたっては、期待はずれの可能性がある。こうした期待はずれも、各人にとって観察可能である。だから期待はずれにあたっては「当惑」のような感情も生じる。さらに、各人はあらかじめ期待はずれの可能性を想定しておくことで、実際に期待はずれが生じても機転を利かせて対処したり、あらかじめ対処法を考案しておくこともできる。
このように個人が一定の状況内で一定の体面を保つことが期待されるかぎり、それに相関して状況内の一連の事態を観察し対処する「主体」が要請される(ないしは創発してくる)し*3、期待はずれのようなものは当の人物に帰属され、道徳的な評価を受けることにもなる。つまり、なんらかの体面を保とうと関与していく個人は、そこに(あくまでも)一つの自己を作りだすことになる。
また、また体面が互いに帰属される期待によって支えられているかぎり、互いは互いの体面を相補的に支え合っている。だから、お互いがお互いの体面を維持するために貢献しようとする十分な理由があるし、そこに共感の条件や、互いの間の関係を搾取的・戦略的に利用する可能性も生まれる。
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