大庭健『はじめての分析哲学』

 次はこの本を読まねばなるまいということで読了。クワインホーリズムって、これまたとても面白いんだけれど、なんだかトカゲの尻尾きりっていうか、都合の悪い時は末端から切っていってなかなか本丸には届かないって話に読めてしまうのは、御時世のせいか。

知覚的・コミュニケーション的に「手に負えない経験があったとき、他の言明よりも相対的に訂正の対象に選ばれやすい」という文を「感覚的経験に近い」文と呼び、「こと特殊な経験に近い文は、周縁のそばにいる」とみなす。それに対して、「高度に理論的な言明は、全ネットワーク内部の比較的中央部に位置している」と(158)。

 それはともかく、いま読み返すと、もう直感的に知覚言明と概念枠は循環関係に入ってしまうと思う。

一方では、知覚言明の訂正は、クワインが言う「コミュニケーションの有効性」を大幅に損なうものであって、知覚言明は、通常はそのように訂正されたりはいたしません。見える・聞こえるといった知覚言明をコロコロ変えないことが、「コミュニケーションの有効性」を相互的に担保しています。しかし、他方では、そのような互いの知覚は、眼前の混沌を・何《として》見-分け、聞き-分けるか、という《概念的枠組み》の共有において、はじめて可能となっているのであります(157)。

 そうすると、デイヴィドソンが「第三のドグマ」批判を始めるのもスゴクよくわかる。

かくして、デイヴィドソンの議論は、こうなります。《概念枠》が異なると言えるためには、相手の振るまいシステムが《翻訳できないが、言語である》と言えなければならない。しかし、翻訳を離れて、なお言語であると言えるためには、そのシステムが、1「世界を分節化し組織化している」と言えるか、2「真な文である」と言えるか、そのいずれかが必要である。しかし、1のように、我々の言語に翻訳できないシステムが、相手においては「世界を分節化し組織化している」などという余地はない。にもかかわらず、そう言えるかのように想定されてきたのは、ひとえに、
  未解釈の感覚的所与が、概念枠によって、はじめて現実のもの・こととして整序される
という《枠組み+内容》図式が、無批判的に信じられてきたからであり、この図式こそが、《概念相対主義》を生んだところの《経験の第三のドグマ》の他ならない。他方、2のように、相手の振舞システムが「真な文」の発話のシステムだ、と言えるためには、既に我々に言語への翻訳ということが前提になる。よって、この場合にも、《翻訳できないが、言語である》というための基準は、存在しない。ゆえに、いずれにしても、《概念枠が異なる》という観念は、意味をなさない(282)。

 それでも、前に記したように何で真理条件で行くのヨというボクの疑問は残ってしまうのだが、今頃になって気づいたことには、大庭さんはすでにこの点を注で問題にしていたのだ。この本を読み返すのはこれで何度目になるのかよく分からないのだが、これまでこの注のことが記憶に残っていないというのはちと問題ありというか大変問題である。

しかし、かかるデイヴィドソンの発想を支えている「真理条件的な意味論」は「ラディカル解釈」の当事者のように装ってはいるものの、実は、言語使用のただなかに投げ込まれた当事者の立場を超越した悪しき《哲学》なのではないか?あるいは、そこまでは言わぬにせよ、「真理条件意味論」が、果たして我々の言語習得・言語理解についての適切な描写であるのかということは、さまざまな観点から問題化されうる(335)。

はじめての分析哲学

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