自己への物語論的接近

この本、昔読んで分かったようで分からなかったのだが、
 1,自己は自分自身について語ることを通して生み出される
 2,自己物語はいつでも「語り得ないもの」を前提にし、かつそれを隠蔽している。
いま読み返すともうこの時点でターミノロジーが気になるな。まず、この時点で「私」と「自己」は互換的に使われている。しかも、それは無数の行為や体験の中心にあると思われているが、それは自己を中心にみることで行為や体験が一定のまとまりや整合性をもって現れるからだ。しかし、ゴッフマンなら自己は多様で首尾一貫しないのを操作しなければならないし、ゴッフマン、ルーマンの議論では帰属先は人格であり、「私」はともかく(デネットならそう)、自己が中心だというとき、この自己って何かいなということになる。本書では、自己とは「語られた自己物語や個人の自己イメージ」のことなのだとある。さっきと話しずれてない?
・物語の特徴
1,視点の二重性。視点はパースペクティヴということかな。ここも語法にいささか躓く。「語っている私」と「語られている物語のなかの私」が別のものであるのはもちろんだが、これは視点の違いなのかというか、「語られている物語のなかの私」の視点とはどいういうもの?というか、あとでそんな話し出てきたっけ?
2,自己の物語は出来事を時間軸上に選択的に配置するもので、しかも、これは物語る時点からの配列される。これを「時間的構造化」と呼んでいるが、なぜ、「構造」と呼ばれるのか気になる。あとでそんな話し出てきたっけ?
3,他者に向けられている。聞き手に向けられてるでいいと思うけれど、そう書かないということは、物語の宛先は具体的な聞き手以外にも開かれているということになるのだろうか?この違いは大きい。一方で、他者(聞き手)を納得させなければならないだけでなく、語る権利が正当化されなければならない。
聞き手なら物語に耳を傾けてくれるだけで、語る権利(順番)を与えてくれることになるがこう書かれるとそれではすまないらしい。実際、「制度的な文脈」が正当化をもたらすとなるけど、これがなんのことで、どうすれば正当化されることになるのだろうか。結局、物語ることができればいいのではないかな。そうすると、制度的文脈とはそれを制約するものであり、場合によっては構造化されてたりするんじゃないかと思うのだが詳細な記述なし。このとき「語り得ないもの」を「前提」にするというのも強い表現だな。ただ、伴っているわけではないわけだ。
・それから「語りえなさ」が含意するのは、物語の複数性や相対性ではなく、物語の一貫性や完結性を突き崩すものとある。まず、自己物語が首尾一貫しないのは、日常的な自己を振り返れば当たり前ことで、だから体裁のよい物語にするためには首尾一貫したものへと加工しなければならないが、これは物語の複数性や相対性にかかわるといってよいだろう。
むしろ、物語のなかにあり「変化へのきっかけ」になるというから一種の抑圧(トラウマ体験)のようなものであろうが、それを隠蔽するということがよく分からない。「語り得ない」ものがあると言われなければ、そんなものがあることは分からないわけだから(ここだけ視点が違う)、隠蔽されているとわかるのも含めてどこまで言ってもその所在は事後的にしかわからないのではなかろうか?しかし、前提だとある。だから、このおうに書かれることになるが、前提にしておかないと循環論になるね。
一方、変化してしまうと結末では一致する(ように語られる、がよいと思うが)語っている自分と語られている自分がずれてしまう、これがパラドクスだとは思わないが、これにあわせた「回心」というフォーマットがあると。自己物語そのものも定型化する「ドミナント・ストーリー」というものがあると。このときの自己物語の聞き手依存性、とにかく聞いてもらわなければならないし、とりわけ生まれたばかりの事柄については他人の物語を採用せざるを得ない。
・相互行為論的自己から関係論的自己へ。ここでまたターミノロジーに躓く。相互行為的な自己と関係論的な自己は同じ水準にあるのだろうか?相互行為論的には物語の「語り手」「聞き手」で十分自己に相当するが、自己物語で問題にする「自己」はそれとは違ったレベルも含まれそうだ。少なくともそれだけのレベルの話じゃない。そして、自分が変わるというのだからどう考えてもアイデンティティを問題にしている。で、たしかこの二つを互換的に使ってる。(間飛ばして)ーーー。ちなみに、自分を変えるのは難しい。関係というのは人間関係のパタンであり自己イメージ、つまりは過去の人眼関係の蓄積の結果ということであろう。
で、関係(自己イメージ)を変えるには自己を変えなければならず、自己を変えなければ関係が変わらない、とあるけどこの二つは独立のものだろうか?ちなみに、これは自己との関係(自己イメージ)を変えることと言い換えられるという。ここでミード=船津衛との対比がなされているが、私は船津解釈は採用せずに、「I」とは残余カテゴリーであると考えるから、むしろ一見するかぎりでは整合性があるように思える。それはともかく、この循環を変えるのは「他者」が物語を受け入れるときである、ということであるとされる。そうすると、この関係論的自己の関係には聞き手は含まれないのかいなというわけで、物語るときの語り手ー聞き手関係がでてくるけど。これは関係論というときの関係に含まれないのだろうか?最初はそんな風に読めたけど。相互行為的な水準と関係論的な水準を混同してないかという疑念が再燃する。
 以上、丁寧に読めば納得できるような議論になってるのかもしれないけど、時間に追われて作ったおさらい用の書き殴りのメモとしては、循環とかパラドクスとか好きだけど、これ、あえてそう形容するほどのものなのか。もう少し概念の交通整理ができるのではないかというのが感想の結末。
 

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

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