シルヴィ・ギエム

 ご本尊の出演時間は1時間程度なのに1万円+αもはたくのかと思いつつ、ギエム見たさに散財してしまう。最初の東京バレエ団の絵に描いたようなストーリーと言うが、白黒のシンメトリックな絵はあってもストーリーはないようなベジャール作品も面白かったし、第二部の短いギエムの二つのパフォーマンス(相変わらず、この人の身体ってどうなってるんだろうと思ってしまうのだが)も、東京バレエ団の二人が踊った使ったベジャール振付のバッハにふりをつけた小品もそれぞれよかったのだが、今回はやはりギエムではもう見られないと思っていたベジャール振付の「ボレロ」。この作品に自分なりの決着をつけることができたように思う。
 まず、端的に言ってしまえば、これは男だけの性の祭典なのだ。ベジャールの「ボレロ」は三回見ているのだが、はじめて見たのはクロード・ルルーシュの映画のなかで故ジョルジュ・ドンが踊ってるやつ。パフォーマンスの出来不出来には関係なく、(同性愛者の方にはたいへん失礼ながら)とにかく見ていて気持ち悪くなってしまう一方、そこにホモセクシュアルなものを感じた。自分の内なる同性愛嫌悪があぶり出されてしまったようなものだが、どうしてそう感じるのかがそのときはよく分からなかった。
 しかし、三回見てはっきりわかった(つもりな)のだが、真ん中で力強く踊るギエムは誘っているのだ。あの踊りはいわば男が男にたいしてみせるしな(科)なのだ。ギエムを囲む周囲の上半身裸の男のダンサーたちは、何人かずつ覚醒状態に入ったかのように身体を上下させはじめ(これが性交を暗示させるのはいうまでもない)、やがてギエムにあわせて踊りの輪に入り一緒に誘い始める。そして、それがどんどん広がっていき最後には全員がその輪に加わる。
 結局、私が気持ち悪いと思わずにいられなかったのも、そうした「しな」をとおして自分が誘われているのをどこかで感じていたからであり、また、そうしたパフォーマンスがかもしだす陶酔状態についていけいない、ないしはついていきたくなかったからなのではないかと思う。
 そうすると、なんで女のギエムがこんな「ボレロ」を踊るのだろうと思わずにいられないのだが、彼女にしてみれば自分がどこまで男を演じられるかが勝負どころということになるのではないだろうか。どうみても彼女のパフォーマンスは女のつくるしなではない(不思議なことにここでは男と女が逆転することになる)。とはいえ、目の前にいるのがジョルジュ・ドンだったらこんなものではすまなかったのではないかとも思う*1
 最後に思うのだが、あの「ボレロ」が終わって拍手喝采をおくる皆様方はいったい何に拍手喝采を送っていたのだろう?まあ、生の祭典でもあるのだけれど。個人的にはBプロの方が見たかったのですが。なお、今回は岩手、福島(いわき市)も回ったそうです。流石。
 

愛と哀しみのボレロ(完全版)

愛と哀しみのボレロ(完全版)

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョルジュ・ドン