カンパニー マリー・シュイナール

 春の祭典、この舞台を見ながらまずなによりも感じたのは気持ち悪さだ。舞台を見て気持ち悪いと思ったのは、ベジャールの「ボレロ」ぐらいだろうか。はじめから女性のダンサーの胸はゆれ、尻をつきだすポーズをする。でも、ちっともそそられない。ここに現れる身体はしなやかに動く身体ではない。動きの基本的なパターンはいくつか決まっているみたいだけれど、それは人間的というよりは、どこか動物的、あるいは物質的だ。腕や脚はまっすぐきれいにのびるというより、ねじまがりくねった肉体が筋肉の動きを喚起する。とりわけ男性の踊り手は、よくあるイメージとは違ってまったくきゃしゃな印象を与えず、むしろどこかボディ・ビルをみせられているような感じがしてくる。こうした男性の踊り手が複数からみあるときどんな印象を与えるか想像してもらえるだろうか。あるいは、区別がつくようになってもときどき性差が感じられなくなる。男女が向き合っても、そこには愛のかけらも感じられない。しかし、むき出しの肉体の絡み合い、そこからみなぎる生命力がかもしだす「春の祭典」というのもあるわけだ。

 二つ目は、アンリ・ミショーの『ムーヴマン』の本が背景に映し出され、本に記されているらしい黒い記を黒衣姿のダンサーがなぞって影絵のようにそのフォルムを見せて行くいくというものだ。最初は、一人でいくつかのフォルムをなぞっていたものが、途中からアジテーションが入ったり、複数のダンサーの組み合わせで一つのフォルムをなぞったり、連なって同じフォルムをなぞったりする。ときどき叫び声が入ったりする。それは、お遊びのようでもあり、何をやってるんだろうというような感じだが、あるところで舞台が暗転。今度はむき出しになった肉体がむき出しになってフォルムをなぞっている。しかも、ストロボ・ライトでコマ落としのようにその姿が映し出されるとそれまでの黒衣が反転して肉体がむき出しになったように感じられる。それまでの黒衣姿を支えていたのがほんとうはこうした肉体だったわけだ。という感じで、二作続けて、モチーフの重なる濃い作品を見ることができた。
 


アンリ・ミショー ひとのかたち

アンリ・ミショー ひとのかたち