「森村泰昌 何ものかへのレクイエム」

豊田市美術館

 最近、美術館に足を運んでいる余裕がなく、すっごく久々に美術館へ行った。相変わらずのセルフ・ポートレイトなのだが、数年前横浜でやったときは、名画の再現というモチーフでやっていて、そのなかに三島由紀夫のそれも含まれていたと記憶する。それでいくと、今回は、そのときの三島作品も含めて歴史のなかの男たちの写真が再現されている(以前からの女優編もありますが)。
 見ていて印象に残ったのは、釜ヶ崎で撮ったというレーニンの演説する姿もさることながら(トロツキーがいる編といない編があります)、森村の実家であるというお茶屋で撮ったというマッカーサー昭和天皇の写真を再現したものだった。考えてみれば、あの写真が掲載された新聞は各家庭に配達されたわけだし、それは自宅のお茶の間にあの二人がやってきたようなものだろう。なんだか、玄関先にマッカーサー昭和天皇がいるというのが、当時の状況としてなんだかとてもしっくりくるような気がした。
 もちろん、森村自身が演じるセルフポートレイトなわけだから、それは事件の再現であって再現ではなく、いくら模倣したところでどこかしらそれらしくないわけだが、他方で、瞬間を切り取る写真というものも歴史的出来事の記録としては誰の記憶にも残らない記録という意味では「らしくない」もので、それが歴史の記憶を代行してしまうというのもどっか奇妙なところがある。もしかしたら、トロツキーのそれはそのことをよく示しているのかもしれない。それはともかく、
 なんて言えばいいんだろう。「らしくない」ものを再現するそのらしくなさが、かえって歴史的事件を現在と結びつけて考えるきっかけになっているというか、二つの間の懸隔を感じさせ、その間を埋めるものを考えさせるようになっているというか、つまりはそれがレクイエムになるということではないかと思うのだが、そのレクイエムが向けられる先はセルフポートレートのオリジナルなのか、それとも二つの懸隔から生み出されてくるいまはなき何ものかなのか。その一方で、映像作品ではわりとべたなメッセージが語られている。