「視覚の魔術 だまし絵」展

 行こう行こうと思っていたのだが、といってもだまし絵という発想にあまり心ひかれるわけではなっかたのだけど、この間いろいろあって絵を見に行く余裕などなく、結局終了間際に行くことになってしまった。主題のせいか、あるいは、しばらく前に日曜美術館で取り上げられてしまったせいか(未見)、平日の名古屋市美術館にしてはかなりの入り。しかし、昼間にいったのに子どもが結構いるのはどういうわけ?

 ボクが面白いと思ったのは、まず、だまし絵trompe-l'oeilブームが到来したのが、17世紀のオランダだったということだ*1。そして、この時期のだまし絵を見ていくと、そしてそれは後の基本形にもなっていくわけだが、額縁のなかに額縁の絵が描かれていて、その描かれた額縁から絵の中身(人物等々)が飛び出してくるような絵、絵の背景に壁とかリアルな世界のそれと連続しやすいものが描かれているもの(絵のなかの絵)、さらに、そこに何かが吊されているように見えるもの、の三つぐらいが基本パターンになりそうに思えた。

 明らかに、こうした絵は、ある種の移行期に開花した作品だと言えそうだ。中世ヨーロッパにおいて、絵画の主題とは原則として宗教的なものであり、描かれている世界と現実世界は連続的な関係にあった。絵の主題は日常的な実践(信仰)と直接結びついたものだったのである。また、いまや額縁は、現実世界と絵画の世界を区切る境界としてだけ機能しているが、当時なら額縁はそれ自体様々な意匠を施され宗教的な意味を担っていた。それが、ルネッサンス以降の絵画の流れのなかで、絵画の主題が現実とは独立した意味を担うひとつの世界として描かれていくようになる。たとえば、遠近法は、そうした作品世界の自律性に貢献したといってよいだろうし、絵画のなかの背景がそれとして意識されてくるようになるのもこのあたりからなんじゃないかとおもう。一方、それにつれて額縁は、宗教的な意味等々を払拭され、絵画の世界と現実の世界を区切るだけの役目に縮小されていく。

 ところで、こうしただまし絵は、絵を縁取る枠が、絵画の世界と現実の世界を区切ることを前提にしながら、それを踏み越えるように描かれている。つまり、絵画の世界と現実の世界の境界が意識されるようになってきている一方で、まだ、それがそれほど固定したものにはなっていないところで、こうした作品世界が展開されているといってよいだろう。二つの境界が完全に明瞭になってしまえば、こうした「不真面目」な絵はあまり描かれなくなり、それが再度一つの流れをなすほどにになるまでには、しばらくの時間を必要とするにちがいない。実際、展示を見ればそうなってる。

 また、この展覧会では同種の日本の絵も展示されており、そのなかには、絵の主題が絵の表装部分にまではみ出すような形で描かれているものがあり、その主題はしばしば幽霊だった。幽霊は、現実世界の存在であって、現実世界の存在ではない。だから、幽霊の存在は絵の世界のなかに描かれる一方、その外(現実世界)にはみ出しているわけだ。

*1:スピノザはこの頃レンズを磨いていたわけですな。