久保覚

 発表時、掲載雑誌で読んだ『先生と私』を単行本で再読。再読して、久保覚というネットワーカーの存在が記憶から落ちていたことに気づかされる。久保覚は、花田清輝に私淑し、1960年に現代思潮社に入社、1967年にせりか書房を設立し、『新日本文学』の編集長を務める。せりか書房退社後は、「黒テント晶文社と『新日本文学』が形成する三角形の内側で、彼はベンヤミンブレヒト金芝河ロシア・アヴァンギャルドを語り、1998年に61歳で逝去した」(76頁)。当時の現代思潮社せりか書房晶文社がどんな本を出していたかを考えるとこの人物の存在は興味深い*1
 また、「久保覚せりか書房という出版社を媒体として考えていたのは、単に良書の出版ではなく、一つの文化運動を組織することだった。彼は若い学者や評論家の間にこれぞという才能を発見すると、その人物が手がけたいと考える洋書の翻訳と、次々と刊行した。原則として印税は支払われなかった。運動であったためである。その代わりに彼は、自分が目を付けた人物どうしを引き合わせたり、近似した問題意識をもった者たちをまとめて、研究改組組織することに情熱を燃やしていた。おそらくこの発想は、彼が谷川雁から学んだ「工作車」という考えを彼なりに咀嚼したところから来ていた」(77頁)。
 で、どんな研究会を組織、そこにどんな面々がつどっていたかは原著の方で。その後、生活クラブ生協連合会《本の花束》の編集にも協力してる。

先生とわたし

先生とわたし

*1:その晶文社を設立した小野二郎は、弘文堂に入社し谷川雁の『原点が存在する』等の編集にかかわり、1960年に晶文社を設立、1970年に『新日本文学』の編集長になってる。こちらは、ウィリアム・モリスあたりのイギリス工芸運動の影響を受けている