『いじめと不登校の社会学』

 いうまでもなく「学級集団は、その成員である生徒にとって一定時間以上出席することを強制される所属集団で」(68頁)あり、教科学習の習得という集団目標と社会化機関としての第二の目標を有する一方、生徒たちの生活の中心に位置しており、教師や他の生徒たちは重要な意味を持つ存在である。つまり、参加を強制されながらも、そこへ主体的にコミットしていくことによって得られる利得があり、また、利得を得ることが期待されている。しかも、学校では、こうした生徒のコミットメントを評価し、支えになる人たちに取り巻かれている。
 ところで、こうした集団を維持していくにあたって、「先生が「ものすごくこわい」場合にも、「こわくない」場合にも、いじめを発生させる傾向にあることが示されている」(81頁)。いじめの中でも、クラスの成員の少なからずにその所在を知られている「察知されたいじめ」を取り上げてみよう。すると、「察知されたいじめ」のないクラスの方が人間関係の流動性が高いことが分かる。逆に言えば、「察知されたいじめ」のあるクラスの成員の方が群れたがる。

各学級のソシオマトリックスによると、「察知されたいじめ」のない学級の方が、友人の選択・排斥において、より自由に選択しているという印象を受ける。つまり孤立化することを余り気にせず、身近な友人以外の者をも選び、サブグループ内でもそれほど相互選択の度合いが強くない。逆に、成員間で「察知されたいじめ」の見られる学級集団では、親密度の高い身近な友人と相互に防衛し合って、教室内で安定した位置を得よう都市、自己と異質なものに対しては、それほど積極的な嫌悪式がなくても、避けようとする感情が働くのであろう(88頁)。

 また、学級集団の課題への積極性・消極性について見てみると、「傾向としていじめのある学級において、集団課題に消極的である者が多くなって」おり(94頁)、「察知されたいじめ」のある学級の生徒の方が、先生は決まりや約束ごとを勝手に決めてしまい、自分たちの意見はあまり受け入れられておらず、もっと生徒の意見を受け入れて欲しいという思いが強い」(95頁)。つまり、いずれにせよ、いじめのあるクラスの成員の方がクラスに対するコミットメントが低い。もっとも、このあたり因果関係はどちらからでもとれる。
 いずれにせよ、生徒たちからコミットメントを引き出せないかぎり、強制力を強めても弱めてもクラスを組織する効果は期待できない。「フォーマルな規範を内面化させる手段に頼っていた学校側の統制効果は表面的なものにとどまり、むしろ潜在的な反発心や欲求不満が残されていると考えられる」(98頁)。

相対的に弱い者に対して攻撃行動が加えられるあからさまないじめが発生しない場合でも、学校側の統制圧力が強くなって「強制的組織」の様相を呈してくると、学級集団の情緒的雰囲気が硬直化して、生徒間で愛他的な行為や相互補完的な行為の応酬がなくなり、学級集団が消極的準拠集団となる。しかし、所属を強制されているので、教室という空間の中で少数の親密な者とグループを作って、疎外感を最小限にとどめようとする方向に向かう。そして、サブグループ化が過度に進むと、グループ化が過度に進むと、グループ外の者への敵対意識が強化され、友人結合の競争に取り残された孤立化した者にそれが集中して、集合化した排他的ないじめとなる(99頁)。