『いじめ=〈学級〉の人間学』

 この人がいじめの本なんて書いてるの?というわけで絶版本を入手。基本的には、人類学というか記号論、「二項分割と曖昧さの産出とは一挙におこなわれるひとつの事態の二側面にすぎない」(43頁)というところから、「集団の秩序とその同一性の創出」を把握し「いじめの底に働いていくからくりとは、曖昧なものの形而上学であ」るという議論を展開している(214頁)*1
 たとえば、しばしばいじめに際して発せられる言葉は「汚い」といった「汚辱のメタファー」を活用されるが、「汚い」とは相対的な区別であり曖昧なものに属しており、「秩序化が汚れを要求する」(47頁)。また、いじめに際して動物等々のあだ名をつけることは、しばしば、その子をクラスの周縁的で曖昧な地位に位置づける。「あだ名は子どもの特徴を巧みにとらえる隠喩である、というのでは不十分である。のみならず、そのようにとらえることによって、あだ名はまさにその子をそのようなものに作り上げていく働きをする、といわなくてはならない」(59頁)。
 あるいは、貧困であるとか、障害がある等々「社会的弱者」としての属性を抱える者が、学級内の「弱者」として位置づけられていくようになる。「社会的弱者」が「弱さをかかえこんだ曖昧なものへ転身するのだ」(145頁)。
 これらが、身体的特徴や生活条件などと結びついているのは注目に値する。それらは外面的な特徴であり人間的な本質とは何のかかわりがないにもかかわらず、当事者から容易に切り離されないものとして結びついている。「外面的なちがいが本質によって「無化」されたのだ。その結果、差異は内面化の過程にひきずりこまれ、その後、ずっと本質の関心の的になり続ける。換言すれば、差異は曖昧さのしるしにすり替えられたのだ」(131-2頁)。
 また、いじめが行われるのも、学校であって学校ではないような場所や時間帯である。「「いじめっ子が活躍するのは、なんといっても廊下、トイレ、その他の場所である」。「その他、授業の後の教室、反対に、始業前の教室でもいじめは上演されやすい」。「学校の裏庭、登校の道筋、体育館のものかげなど、あらゆる両義的な場所がいじめのかっこうな舞台なのである」(73頁)。
 こうしてなされるいじめは、いじめられる側、いじめる側、それに気づく側が、たとえいじめがなされていることに気づいていても、なされていないと言える余地を残しているという意味において遊びとよく似ており、また、実際にも、「いじめは遊びではないが、あたかもそうであるかのように演じられる」181。しかし、いじめは「現実の遊技的構成の病理にほかならない。本来ならこの機能は、現実に生彩をあたえ、いわばそれにたましいを吹き込むことによって、現実をわれわれの住みうる場所に、つまりわれわれの「世界」にしてくれるものなのだが、いまそれは病み衰えている」(190頁)。
 「遊びに主題に注目しよう。すなわち、問題は「死」なのである」(187頁)。「これは単なる生理的な死ではなくて、世界を制作しながらそこに住みつづけること、「世界への住みこみ」が断たれることを意味する。湧き上がる生の力が枯らされ、存在の核心に決して癒せない深手がみまわれるのだ」(200頁)。
 「いじめを非現実化しうるという幻想、いいかえればいじめを遊びに紛らわせてしまえるという幻想は、あくまで意識以前の領域で紡がれたものだ」(181頁)。「それを徹頭徹尾、意識化しなければならない。できるかぎり、白日のもとに照らし出さなくてはならない」(203頁)。

いじめ―学級の人間学

いじめ―学級の人間学

*1:山口昌男がヴァルネラヴィリティからいじめを説明する時、どんな理屈になってたっけ。