『いじめ現象の再検討』

 なんだか、いじめを考えていたら、日本社会論をやってるような調子になってきた。学校が勉強する場所であるということが自明のものと思えなくなるとき、学校はまず何よりも人間関係を取り結ぶ場へと変容してしまう。ところで、いじめが大人の世界にもあることは、表沙汰にならない常識である一方、そこでは黒白をつけるよりは、長期的な人間関係を良好なものにすることが好まれる。そうすると、犠牲者は、自らの尊厳を否定されたままやっていくしかないということになる。
 いじめは本人の苦痛に準拠して定義されるが、単に本人が苦痛やいわれなさを感じているだけではなく、それがいじめと意識されなければならず、さらに、それがいじめとしてなんらかの形で認定されなければならない。

いじめは最初から確固とした事実としてそこに存在しているわけではない。それぞれの生徒、教師、親が、それをいじめであると認定したとき、初めて姿を現すものである。---。いじめた生徒他いじめを認めないことなどふつうのことだし、まわりの生徒も、他人に感心が薄いから気がつかないことの方が多い。とすると、誰かがいじめの”物語”をつくって、それを関係者におそる蹴ることが必要になってくるわけだ。学校では、教師がその役割を担うことになるだろう。教師がいじめを確認しようとするとき、ある種の力が必要なのは、そのためである(15頁)。

いじめがこのように見えにくいのは、それがしばしばそれが人間関係の延長として行われているからである。

このように、欧米ではいじめた者の犯罪との関連性が大きく問題視されている。いじめ課外の行動が社会的に悪と位置づけられ、将来の犯罪行動に発展するのではなかと考えられているのである(19頁)。

 他方、日本のいじめの特徴は「無視する・仲間はずれにする」ところに特徴があるらしい。

いじめによる攻撃を加える際、日本の児童生徒は、無視したり仲間はずれにする手口によって行うのが多いことを示している。これはなぐるけるなどの積極的な行動ではなく、対人関係を平常の通りふるまわないことによって、苦痛を感じさせる消極的な行動であり、前後の脈略や対人関係の状態を知らなければなかなか見えてこないいじめの手口である(23頁)。

 しかも、学校自体が協調性といった人間活動を重視した道徳評価を学校内に持ち込んでおり、しばしば、いじめられる側はそうした資質に劣っている。つまり、学校文化自体がいじめを促進する要因を生み出している。

こうしたことの背景には、集団全体の流れにうまく適応でき、人と人との関係を大切にし、協調的に行動できるということがなによりもよく評価されることがあり、そのことが重視されるあまり善悪のけじめをつけるという発想が弱くなってしまうことがある。日常生活の中でいじめを対人関係や集団における感情的もつれの一つの現象形態ととらえ、集団への協調の視点からはずれている者を不適応者として扱う傾向があるので、いじめる側がいじめの偽装工作をするなど巧妙な方策でうまく対処するならば、加害行為はそれほど非難されず、いじめられる側が苦痛を甘受せざるを得ない状況が集合的に黙認されてしまうのである(32頁)。

 のみならず、近年では、学習活動にも結びつき、かならずしも人間関係には収斂しない「まじめ」や「勤勉」といった徳目が学校で理念として影響力を持たなくなっていることが指摘されており、その分だけ、児童ないし生徒相互がこれまで以上に人間関係ないしはコミュニケーションにかかわる徳目に比重をおくようになってきているということが指摘できる。

まじめあるいは勤勉は伝統的な常識的価値志向であり、これまで学校での望ましい理念として十分な影響力を持っていたが、それらの弱まりや崩壊が指摘されている(38頁)。

 また、著者が2002年に松山市の一般市民を母胎として行った調査結果によれば、「いじめ加害性が強いほど、「いじめ加害」回答者は「まじめさ」を大切でないとみなす傾向がある」。「「まじめさ」は、いじめ加害性が強くなるほど、否定的なこととして意識される傾向がある」(85頁)という。この話、前の本の背景として読めますな。

いじめ現象の再検討―日常社会規範と集団の視点

いじめ現象の再検討―日常社会規範と集団の視点