鈴木茂『境界例VS分裂病』

 この本の序章を読むと、木村敏教授、中井久夫助教授時代の名市大精神科の様子がよく伝わってきてとても興味深い。あ、もちろん中身も読みましたよ。境界例についてのいくつかの興味深い記述を抜粋。

 まず、境界例の基本線を確認しておくと、

DSM-IIIその他で挙げられている標識、つまり情動の変わりやすさ、いわゆつアイデンティティの稀薄さとそれに基づいた慢性的な空虚感や折にふれて抑うつ、突発的なせわしなさや怒りの爆発、孤独に対する耐性の低さ、不安定で情動負荷の強い対人関係、自己の女性としてのあり方の受け容れがたさなど(37頁)。

 人格の同一性やアイデンティティと他者とのかかわりということについて。これは同一性判断を構成する要素について他者が関与してくるという必然性が理解できていないということですな。

 われわれは彼らの人格に自己同一性や統合性の欠如をみますが、彼らの方でも相手を人格として構成する作業をしていないように見えます。彼らの弱さも善良さも、さらには表出の豊かさや若々しさも、そべてこのことと関連しているように思われます(279頁)。

 私の人格評価が的を射ているか否かは、徹底して周囲の他者たちの同意に依存しています。このことは、自分の人格にせよ他者の人格にせよ、人格評価の主導権は他者の側にあるという、冒頭で述べたテーゼに対応しております。さらに言えば、このよおうな人格評価を内在化してゆくプロセスこそ、自我の発達ないしは分節化と呼ばれるものに他ならないのではないでしょうか?
 われわれはさまざまな人格障害や精神病のケースで想像的同一化や類型化の強すぎる他者評価に出会いますが、ただいま述べたような他者評価過程の構図、つまりこのようなプロセスの実践でどういう能力や機能が試されているのかと言った事柄は、知能の障害がない限り、彼らは不充分ながらも理解できます。ところが、境界例人格だけは、こういった問題の仕組み自体にまるで理解を示さないのです(293頁)。

 また、近代家族の変容過程をふりかえってみると、従来家族が担っていた「類社会的」機能が外部化していく一方で、個人を外側の社会から保護する「抗社会的」機能が衰退している、と言えるだろう。このとき

分裂病中核群の家族では、類社会的・抗社会的な機能が、当の家族成員たちには意識化されないほど厳格に遂行されている。一方、境界例家庭では、両機能が単に弱体であるばかりか、この欠陥が患者によって強く問題にされ、社会的機能が理想化される傾向にある(302頁)。

境界例vs.分裂病―言語と主観性の臨床精神病理学

境界例vs.分裂病―言語と主観性の臨床精神病理学