制度としての基本権

 とりあえず気になったところを拾い読み、久々に読み返してみてあらためてこの本って重要な本だと思った。こんな記述があったなんてまったく記憶になかった。どこかで丁寧に読み返す機会を作らなくては。

こうして、人格として振る舞い、自分が感情を害しやすい人物であることを示すだけの勇気をもっている人は、まさしくそのことによって、周囲のセンシブルな人たちを暴君的に支配することができる。なぜなら、彼はこうしたやり方を通して、自尊心を傷つけない拒絶を敢えて自分に対して行うなどうかという不愉快な決断をその人たちに押しつけているからである。人格的なものに関わる一定のセンシビリテが、社会秩序の中で、社会秩序を通して保障されていなければならないのは、勿論のことである(87-8頁)。

 とりあえずは、「表出の一般化」のところ

分化したあらゆる社会はもはや集権的には十分に調整することができないほどに発展しているが、そのような社会は、社会的諸要請の結節点としての人格性に依拠せずにはすまない。---。「礼儀、寛容、そして心理的な洞察能力が明確な地歩を獲得する」。「この発展は、自覚的な自己表出への道を進み、一つのシステムとしての他の人間に対する自覚的な複合的な構えに至る道を進むのである(88頁)。

 人格と役割と

このような表出の一般化がー特定化されたシステムによるあらゆる一般化にも妥当することだがー人間の行為態度を捉えるのは、ただ部分的に、ある特定化された役割においてだけである(72頁)。---。そのためには、彼は様々な役割を人格的に形成していく中で役割コンビネーションを有意味な生活連関としてもっともらしいものにする自己自身の一般化されたシステムを、個人的な人格性を、もたねばならない(73頁)。

 そして、自由と尊厳。「これら二つの概念は、人間が個体たる人格として自己表出することに成功するための基本的条件を示している」(93頁)。「尊厳は個人的人格性の自己表出の内的な条件および問題に関わり、自由はそれの外的な条件および問題に関わっている」(109頁)。

自由と帰責とは一個同一の問題を示している(95頁)。「自己表出は、それゆえに公然たる強制と正確に描き出された社会的予期からの自由とを前提としている(97頁)。

「自由」よりも「尊厳」の方がはるかに願望されるところの多い概念である(99頁)。
というのは、自己表出は人間を他者との関係において人格たらしめ、そのことによって彼自身を人間性をもつものとして構成する家庭だからである。自己表出における成果、つまり尊厳なくしては、人間は自らの人格性を利用することができない(101頁)。

 

制度としての基本権

制度としての基本権