実践の中のジェンダー

 第1部だけはちらほらと興味深く読ませてもらったのだが気になるところもある。たまたま私もルーマンの該当箇所を読み返す機会があったのでちょっと書いてみる。
 まず、ルーマンとは関係ないが、かなりゆるいと思うJ・バトラーのパフォーマティヴィティの概念にこだわる理由がよく分からなかった。第2部ではほとんど出て来ないみたいだし。
 論文から本になって始めて気づいたのだけれど、『社会学的啓蒙』での相互作用システム(「単純なシステム」)の議論と『社会システム理論』の議論ってどこまで連続しているのだろう?前者では「知覚の知覚」と「主題」が対比されているけど、後者ではまず「知覚の知覚」と「観察可能なコミュニケーション」が対比されている。で、「観察可能なコミュニケーションは、この再帰的な知覚連関に接続すると同時に、この再帰的な知覚連関に組み込まれている」とされる(751頁)。互いに居合わせるかぎりこの二つが併存してやりとりがなされることはさしておかしなことには思えない。
 また、居合わせることが相互作用システムの構成原理であり、境界形成原理であるとされるのだが(755頁)、これは居合わせることが居合わせる者に選択の可能性を与えるからで、単に同じ空間に居合わせているからだけのことではない。
 そして、さらなる構造形成として「事象に関するテーマ」が言及され、それが会話の順番取りに重ねられて、一つの焦点という話に重ねられる。注ではそれでシステム形成の力能が上がるという指摘がなされており、たしかに時間に結びつけられているのだが、順番取りをしながら一つの焦点をめぐってやりとりがなされていくのであれば、十分かどうかはともかくとして、一つの焦点を維持するために居合わせる者には選択の余地が与えられていると言ってよいと思うのだがどうなのだろう?
 知覚の知覚と「事象に関するテーマ」がそれぞれ時間的持続の強弱と結びつくとしても、それだけで直ちにこの二つが時空間から定義されているということにはならない(時空間も意味ではありますが)。他方で、いずれも居合わせる者同士の違ったタイプの選択の可能性が問題になっているように思える。
 また、本書84頁でも言及されている相互作用システムの再帰だが、一つ目はそこでなされたことが何かを明らかにするということだから、主題(だけにはかぎらないかもしれない)が何だったかをはっきりさせるということに相当すると思う。他方、二つ目は、「この集まりは前回の続きです」という話だと思うので、ここでいう相互作用システムの同一性は、システムそのものの同一性というよりは、主題の明確化のような再帰レベルの同一性と解してはいけないのだろうか?
 私はルーマン研究者ではないので、どちらでもよいと言えばよいのだが、ルーマンは相互行為システムとコミュニケーションの差異について語るが、これはゴッフマンに落とせば、相互行為とより広い社会に相当するだろう。この二つの境界は曖昧だと思うが、この二つの差異が相互行為で参照されることもまた確かなことだと思う。
 

ちょっと前だがクルーグマンのコラムの翻訳

http://econdays.net/?p=5067