自己の分析

 理想化転移(理想化された親イマーゴ)にあてはまることは鏡転移(誇大自己)にもあてはまると、分析者のパーソナリティや精神状態が、患者の転移を受け入れるのを妨げることがある。「ただし、分析的態度は一つしかない。賞賛を受け入れることである」(237頁)。患者の融合欲求にも耐えなければならないし、患者の自己愛要求にを導く見通しを、よく制御された共感理解というかたちで、患者に示さなくてはならない。とはいえ、双子(分身)と融合の再動員に関わる自己愛要求を理解できず、適切な解釈で反応できなくなるかもしれない。
 いずれにせよ原始的な自己愛体制が動員されると、自己愛転移の徹底捜査が可能になり、特異的な変化がもたらされる。で、前エディプス期的な局面が、放棄されるとそれは中性化されたかたちで内在化され、超自我という心理構造の理想化がもたらされると。というわけだから、ほとんど分析者は被分析者の父親というか超自我の審級を代行し、被分析者の鏡像のような存在になるというわけで、すいぶん高い注文だと思う。
 今回のコフートで、境界性人格障害に加えて自己愛性人格障害と扱った本を読んでみたわけだが、二つに共通しているのは、エディプス期以前に抱え込んだ「親子」関係に由来する問題が生育して以降も、後を引きずるという話。自己愛性人格障害境界例の軽いのみたいに考えればよいわけですな。しかし、この本面白いのは、対分析者との関係が問題にされていて、日常生活の問題がほとんど言及されていない。
 で、コフートにしろ、カーンバーグにしろ、精神分析の適用領域を拡大する形で議論を展開しており、メカニズムとしてはとても分かる。しかし、超自我が未発達な人物を対象に、それでも転移は起こるからというわけで、治療するというのはしんどいだろうという印象を免れがたい。治癒率ってどれくらいなんだろう。
 しかも、社会の方が以前に比べれば超自我的な抑圧のすくない社会に変容してきているように思われ、実際、統合失調症のみならず、境界例の軽症化ということも指摘されており、患者の生活環境と治療環境そのものも、根本的とまで言えるかどうか分からないが、相当変化しているだろう。といった、現状ではどんなことが起こっているのかな。しかし、私のようなおじさんが読んでいると、この状況に耐えるのは相当のストレスだろうなと思う。
 

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