斎藤環『母は娘の人生を支配する』

 しばらく前に、看護士をしている知人から親子で同じような格好をしてる母娘(しばしばママの方がいけてたりする)の家庭は、問題を抱えていることが多いという話を聞いたことがある。それ以降、母娘親子連れのファッションがやたらと気になるようになってしまったのだが、これは何となく分かるような気がした。格好からして、なかよさげに見える一方で、親子というよりは女同士で張り合っているようにも映るのだ。
 また、母娘関係が、それはそれで母息子関係には見られないような、大きな問題を抱えこむことがあるというのは、個人的に知っているいくつかの実例からもなんとなく分かっていたのだけれど、なにせ自分が入り込めない世界なのでなんとも言いようがなかった。でも、前著を読んでちょっと足がかりが着いた気がしたので、続けてこの本を読んでみることにした。
 斎藤によれば、母娘問題「すべてのパターンに共通することは、母親による娘の支配、これに尽きます」。「問題は、いかなる場合であれ、母の能動性と娘の受動性という組み合わせは変わらない、ということです」(39頁)。

娘の場合、関係性は両極端に分かれる傾向があるようです。あたかも友人関係のように、良好な距離感で同盟を組む関係があるかと思えば、互いに傷つけあうような、こじれた密着状態にある場合も少なくありません。密着の場合はしばしばそこに娘による暴力も伴うことになりますが、いずれにしても、依存の度合いが息子の比ではなくなっていく印象があります(57頁)。

そして、この「母娘問題は、母親や女性への抑圧が低下したからこそ、出現した問題のように思われる」(26頁)というのである。
 しかも、その構造は基本的には女の子同士の構図と同じであり(というより向こうが同じというべきだろうが)、ここではそれが、メラニー・クラインが「妄想-分裂態勢」と呼んだ、良い自己と悪い自己の「分裂」と投影性自己同一視から説明されている。

分裂と投影は、お互いにお互いを強めあうような、循環的な関係にあります。この、最も原始的な対象関係のありようは、悪い相手に対しては悪い自分を出す、良い相手に対しては良い自分を出すという態度として、成人にも少しは残っています。
 それでは、こうした子供返りが起こるのは、どんな場合でしょうか。
 なんといっても、密着した親子関係において、最もよく起こります。密着の度合いが最も強い母娘関係などは、この典型です。母娘関係の難しさのかなりの部分は、この「分裂」と「投影」のメカニズムで説明がつくように、私には思えます(65頁)。

 では、こうしたメカニズムの作動の基礎にあるのは何か。斎藤はそれを女性というものの成り立ち、また、そこから現代社会において帰結してくるたち女性自身の「女であること」への両価的な感情、ひいては「女性嫌悪」に求めているといってよいだろう。
 
 よく言われているように、ラカン派に従うなら女性の「本質」なるものは存在しない。

精神分析的に考えるなら、女性性とは徹底して表層的なものを意味しており、そこにいかなる「本質」もないとされます。そうした女性的な表層を見いだす視線とは、男女を問わず、異性愛的な視線にほかなりません。言い換えるなら、ヘテロセクシズムを前提にしなければ、女性はその存在を一貫性のあるものとして主張できないのです(126頁)。

 実際、「女らしさ」なるものは、基本的に生殖という点でもしつけという点でも「身体」を持つことに求められることが大半だ。だから、もともと母親業には娘を支配しようという契機が含まれてくることにもなる。

「男性らしさ」は抽象的な観念として伝達することができます。しかし「女性らしさ」を積極的に指し示すような観念はほとんど存在しません。それゆえ、母親が娘に伝えようとする「女性らしさ」は、きわめて個人的な内容のものにならざるをえません。それはほとんどの場合、娘は母親に身体的に同一化させよう、さらにいえば同一化によって支配しようという試みに限りなく接近するでしょう(185頁)。

 また、娘の側にもこうした支配を受け入れる素地がある。というのも、親子関係を最終的に確認できるのが母親の側にあるという非対称性を鑑みると「この意味で母娘関係を受け入れるということは、こうした非対称性を受け入れることを通じて、支配-被支配の関係を受け入れることにも通ずる」からである(152頁)。
 しかも、とりわけ近年なら、「父親」の存在が希薄になる一面で、両親とりわけ母親の子育ての責任が過剰にあおられる傾向がある。「母親」になるかどうかは個人の選択の問題とされながらも、女性が結婚して子育てをすることに価値を置く風潮は以前として残っているのだ。
 ところで、既に見たように、「「対幻想」なるものが、基本的には男性の側に起源を置くものであり、女性はそれを受容させられているに過ぎないのではないか」(131頁)、「女性は男性と異なり、環境いかんによっては対幻想をあっさり捨て去り、ヘテロセクシュアルな欲望を否認した状態に長く留まることができる」(132頁)のではないかという疑念があるのだった。たとえば、やおい*1
 ということは、母親ないしは女であることがこれまで以上に求められながらも、そこから離れていく余地もまたそれだけ大きくなっていることになるから、その分「女であること」にたいして両価的な感情を抱きやすくなるし、女性嫌悪が生まれる余地も大きくなっていると言えるのではないか。
 また、こうした感情は自分自身に向けられる一方で、同性である娘(ないし母親)にも向けられるであろう。つまり、こうした状況では、母も娘も互いに互いが女であるということに両価的な感情を抱いて接するに違いない。すなわち、

 母親から娘へと向けられた「無条件の承認」なるものは、その基底に性的存在としての女性身体を共有することからもたらされる親密さと嫌悪感を等分にはらんでおり、それが愛情を条件つきのもにすることもあります。
 一方娘の側も、母親に全面的に依存しつつも、女性身体を通じて同一化をうながさずにはおかない母親を嫌悪し、その母親へと連なるほかなはない、自らの身体をも嫌悪します(143頁)。

 これがダブルバインドな関係を作りやすくすることはみやすい。というわけで、ここに阿闍世コンプレックスを逆手にとる契機、すなわち「母親は娘に母性的に奉仕し、娘に「申し訳ない」と感じさせることによって、娘を支配する」(83頁)という構図を強化する因子を見いだすことは容易であるように思われる。

 身体的な同一化の支配において、母親は時に、娘の人生の生き直しすら期待します。こうした支配は、高圧的な命令によってではなく、表向きは献身的なまでの善意にもとづいてなされるため、支配に反抗する娘たちに罪悪感をもたらします。
 しかし、母親による支配を受け入れれば、自分の欲望は放棄して他者の欲望を惹き付けるという「女性らしさ」の分裂を引き受けなければなりません。それゆえ母親による支配は、それに抵抗しても従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらさずにおかないのです(189頁)。

 ここにも一種のアイデンティティ・クライシスがある。そして、このとき娘が抱く「女性であること」に対する両価的な感情ないしは「女性嫌悪」に折り合いをつけてくれるのが、父親の適度な介入ということになるのかもしれない(いわゆる「父性の復権」ですな)。

ナルシシズムは、異性の親から愛されることによって育まれます。それゆえ唯一の教育者としての母親やほかの女性の存在は、男のこのナルシシズムを育みはしますが、娘のナルシシズムを確立することはできません。なぜなら、娘のナルシシズムは、異性である〈父〉の存在を通じてしか、確立されないためです(178頁)。

 そうはいっても、現実的にはかなり難しいと思うし、それ以前に、そもそもこの社会に復権するほどの「父性」があったのかどうかちょっと疑わしい気がする。そうすると、こうした問題に向き合うためには、支配-被支配関係に気づき、自立の意義について考えるという女の子どうしの問題と同じ課題が浮上してくるのだが、もちろん問題はこちらの方が根深い。
 

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

*1:「私はこのジャンルの成立においては、対幻想からの逃走と、純粋な関係性だけがもたらす享楽の追求が重要であると考えています」(101頁)。「男性おたくがキャラクター萌え(対幻想下)優位であるとすれば、女性おたくは関係性萌えなのです」(136頁)。