レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』

 この本、面白いし、よく分かる。問題の中心は、簡単に言えば、女の子は、男の子と比べて、原則として常に「よい子」でいることを強いられていることにある。たしかに、考えてみると「女らしさ」に結びつく徳目は、ほぼストレートに「よい子」であることにつながるのにたいして、「男らしさ」は必ずしも「よい子」であることにつながらない。たとえば、親の言うことを素直に聞き、兄弟姉妹の面倒をみることが期待されるのは、男の子より女の子だ。

 他方で、いまの社会は女性が自立することを肯定する社会でもある。つまり、現代の女の子は「女らしく」あらねばならないという規範と、必ずしも「女らしくなくてもよい」という規範を同時に課されているに等しいのである。しかも、女性の社会進出や交際範囲の拡大は、女性間の競争を強化する方向に働いている。つまり、女性は、知らず知らずのうちに、女性であることにアンビヴァレントな態度を採ることを強いられやすいのだ。

 思い起こせば、小学校のころ何かあるとそれをすぐに先生に告げ口するのは必ずといっていいほど「女の子」だった(職場ですら同じような行動を採る人がいるとは思わなかったが)。他方、子供の頃はイジメというのは女の子の専売特許だ(少なくともより陰湿だ)と感じていた(いまは単純にそうはいえないようですが)。そこには何があったのか?
 
  レイチェル・シモンズによれば、女の子のいじめの特徴は以下のようなところにある。

女の子たちの攻撃という隠れた文化では、いじめは独特で伝染しやすく、人をとことんまで傷つける。男の子の場合とちがい、身体や言葉を使った直接行動はとられない。私たちの社会では、女の子が公然といさかいを起こしてはいけないことになっているので、女の子の攻撃は間接的なかたちをとり、表面に出ない。陰口をきき、のけものにし、噂を流し、中傷する。あらゆる策を弄して、ターゲットに心理的な苦痛を与えるのだ。男の子の場合、いじめの対象は、それほど親しくない知りあいか外部の人間であることが多いが、女の子のいじめは、結束のかたい仲良しフループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっていると外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる(10頁)。

 ところが

こうした女の子文化では、怒りはめったに言葉にされない(11頁)。女の子た場合は、攻撃に、拳やナイフでなく、しぐさや人間関係を用いる(10頁)。

 女の子たちの標的になりやすいのは、「脅威を感じさせる」という「カンペキな子」だという。でも、どうして。

「カンペキな子」の定義はさまざまだが、最重要事項はある。女性らしさのルールを破ることだ。ルールでは、女の子は控えめで、おとなしくしていなければならない。人に好かれ、自分より人のことを優先しなければならない。力を得るとしたら、彼女を認め、好きになってくれる人や、彼女が知っている人のおかげであって、彼女自身の力によるのではない。こうしたルールを破ったとき、「カンペキ」のレッテルが貼られることになる。
 「カンペキな子」には共通する特徴がある。自己主張をする、あるいは自信に満ちていることだ。自信の源は、性的魅力だったり独立心だったり、身体や言語の能力だったりする。また彼女は好みや欲求をはっきりもっている。「いい子」になるための自己犠牲や抑制には抵抗し、物言いや態度、服装までもが、他人第一で生きているわけではないことを示している。
 「カンペキな子」の態度は、女の子たちを困惑させる。うぬぼれること、自分が他人より上だと思うことはよくないと知っているが、その一方で、そういう態度に嫉妬する部分もある(121頁)。

 
 言ってみれば、「女の子らしく」ない「カンペキな子」の存在は女の子をアイデンティティ・クライシスに陥れるのだ。じゃあ、「カンペキな子」が嫌われるというのなら、女の子たちはどうすればいい?

「カンペキな子」と呼ばれるのを恐れ、自信を見せたら嫌われるとなれば、女の子達は、まさに成功するために必要なふるまいを隠すようになる。自尊心と競争心は、本来、成功するために必須のものだが、女性らしさというルールを破るものでもある。競争心をむきだしにするのは、「いい女の子」にそぐわない(124頁)。
 同じことは、嫉妬にもいえる。嫉妬は、自分が与えられている以上のものを望むことであり、限度がない。---。しかし、妬みを覚えることは、完璧でかつ自己犠牲的でなければならないという期待にそむくことでもある(125頁)。

 そこで、

攻撃性もそうだったが、女の子は嫉妬と競争心を内に抑えるすべを学ぶ。それらは消えるわけではなく、「受け入れられる」かたちに変わるのだ。いつもまいがいなく「いい子」で「好かれる」ために、女の子たちは秘密の約束ごとを用いる。つまり嫉妬と競争心を、間接的に表現するようになるのだ(125-6頁)。

 というわけで、「女の子らしくない」徳目を隠すようになる。こうした戦略って、自分のなかの良い自己と悪い自己の統合を困難にしているに等しいわけで(ちなみに、これは境界例の特徴の一つだとされる)、さらに女の子たちのアイデンティティを攪乱させる方向に働き易いであろう。シモンズによれば、その結果、女の子は自分が何者で何を感じているかすら分からなくなっていくという。

 これらの感情を否定するかぎり、私たちは自分自身から切り離され、他人と真の関係を結ぶこともできない。それらは否定したからといって消え去るわけではなく、ほかのかたちに変わる。そして、私たちが何を感じているのか、どういうつもりなのか、何ものなのかが、いっそうわかりにくくなる。それらの感情を否定することは、私たちを誰にも見えない場所へ連れていく。そこは、どんな女の子にとっても、ふさわしい場所ではないのだ(163頁)。

 
 関係のなかで自己確認が出来ないときに、じゃあどこで自己確認をすればよいかといえば、女性に用意されているのは、まずはさらなる関係だ。そして、そのための資源は「人気」である。

 女性たちはながいあいだ、他人との関係に頼って社会的地位を高めてきたが、人間関係をめぐる冷酷で悪意に満ちた競争の中心に、人気があった(165頁)。女の子の友情の特徴が、秘密を打ちあけあい、親密な態度を示すことだとしたら、人気者になりたい子は、この秘密と親密さを利用する(182頁)。友情はそれ自体が目的であるだけでなく、手段でもあるのだ(182頁)。

 ここに悪循環が生じることは見やすい。つまり、ますます自分が何者であり、どんな感情を抱いているのか分からなくなっていくのである。

人気をほしがる女の子の多くは、それでも、相手と直接対決するのは恐れる。---。居心地の悪い思いをするより、「何も変わってないわ」と保証する方を選ぶのだ。---。親友にいじめられた女の子はたいてい、そうした状況に直面する(183頁)。

 その結果はといえば、以下のようなものだが、ここで確認されているのは、投影性同一視だといってよいだろう。まさに、相手の感情と自分の感情の区別がつかなくなっているわけである。

 私にいえるのは、いじめる側の子は、ものごとを自分の思うままに解釈させることによって相手を支配する、ということだ。支配されるほうは、自分の目よりも相手の話を信じる方が楽なのだ。非は自分にあり、相手に許しを乞わなくてはならないと思えば、関係を信じつづけることができるが、そうでなければ、友情の輪から追放されたことを認めなければならないから(183頁)。

 ところが、アフリカ系アメリカ人の女の子の場合は、ちょっと違っているのだという*1

 アフリカ系アメリカ人の親は自分がなめてきた苦しみや怒りをつくろわないので、娘は「理想的な人間関係」を押しつけられずにすむ。むしろ人間行動の現実、とりわけ攻撃性に、正面からぶつかるよう、強くうながされる。
 第二に、人種差別と抑圧の日々にうながされているせいで、一部の黒人の女の子にとって、人間関係を最優先して「いい子」になるのは危険である。私が出会ったのは中流から労働者階級の子が多かったが、自分と他人のあいだに境界線を引いていた。グループ・インタビューでも一対一の面接でも、信頼できる「友だち」と、「知りあい」をはっきり区別した(192頁)。
 そこでは人間関係は自分で選ぶもので、攻撃も必要だと認められている。女の子が共有できる言葉があれば、ますます複雑になる人間関係を乗りきっていけるし、うやむやにされがちな裏切りにたいして声をあげることもできる(193頁)。

 いずれにせよ、女の子たちが置かれている状況がこんな具合であるならば、女の子たちが「自分が女であること」にアンビヴァレントな感情を抱くことはおろか、無意識のうちにも、女性であることを嫌悪するようになったとしてもおかしくはあるまい。こうした状況が推察されるということは翌日の一冊を読むのに役立った。
 
 それから、「女らしさ」として賞揚される徳目の少なからずは、われわれの社会一般で賞揚される徳目とかぶっているということにも注意を向けておく必要があるだろう*2

女の子どうしって、ややこしい!

女の子どうしって、ややこしい!

*1:もっとも、こういう残念な留保がつくのだが。「相手と直接けんかをする女の子たちに、ほとんど社会的な力がないことは、悲しい皮肉だ。彼女たちの声は、他の章で描いた陰湿ないじめの構図に異議をとなえるが、多くの場合その直截さは、そうでもしなければ自分の声を聞いてもらえないという認識から生じている」(204頁)。

*2:知り合いのフランス人がいうには、日本の男がいじめから解放されるのは大学時代だけだと。高校時代まではいじめがあるし、就職してからもいじめが続くって。