『狂気と家族』

 別役実がこの本に言及していたので、これを機会にと読み返してみた。R.D.レインの議論はいまとなってはほとんど評価されておらず、また、彼が相手をしていた患者はいまでは境界例ではないかと考えられているようだ。
 たしかに、患者の病的な異常さが家族の社会的実践から説明できるということは、必ずしもすべてをそこに帰着させることにはならないし、家族の社会的実践と患者の病的異常さの関係も実践から病的な異常さへと一方向的に進むものともかぎらないから、反精神医学的な議論に無理があるというのはわかる。
 とはいえ、この本にあげられている症例を見ていけば、やっぱり患者本人だけではなく、この家族関係自体が病的だと感じずにはいられないし、それがなぜ患者の病的異常さにだけ集約されてしまうのかというのはやっぱり考えるに値する事柄ではないかと思う。また、病気とのかかわりに関係なく、人間関係のなかでどんな風に「妄想」が働いてしまうのかを考えてみるという意味でも、やはりレインの以下のような問いはまだ有効性を残しているのではないだろうか?「すでに「分裂病者」と診断され、その生涯を歩みはじめている人の体験や行動は、その人の家族連鎖の実践と過程の光に照らしてみると、どの程度可知的になるであろうか」(25頁)。
 この本は基本的に症例とその分析からなっているが、そこではたいていの場合、彼女の両親は共謀関係にあり、とりわけ母親には、自分が抱いている娘のイメージと実際に娘が抱いている考えなり、感情なりとの区別がついておらず、娘は自分たちの考えたとおりに行動するものだと思い込んでいる。「母は、自分の家族環境と娘の家族環境とが似ているという考えから、娘が自分自身で知っている以上に自分が娘の感情をよく知っていると思っていた」(97頁)。「彼女は、正確な記述用語いえば、クレアーが自分の記憶や経験や行動とみるところとはかけ離れたものを娘の記憶や経験や行動であると主張し、他方では、クレアー自身の感情や行動に対して、そしてクレアーが自分自身の特性だというところに対して、鈍感になっていた」(97頁)。
 そして、こうした無理のある作業を続けるためにさらに欺瞞が上塗りされていく。「両親は、マヤの記憶や感情や知覚や意志を否定しただけではない。それ自体が奇妙に矛盾しあう諸特徴を彼らはそれらに付したのだった。そしてマヤが思いだしたことや、したことや、空想したことや、望んだことや、感じたこと、また彼女が楽しんだかどうかや疲れていたがどうかなどを、彼女よりも自分たちの方がよく知っているかのように話したりふるまったりしながら、このコントロールを一段と欺瞞を深めるような仕方で維持したのであった」(42頁)。「マヤのパーソナリティのなかで、さまざまな種類の拒否をこうむらないですんだ、いかなる領域も、われわれは見出すことはできなかった」(41頁)。
 それが、ダブル・バインディングな状況を導くことも想像しやすい。「父と母がヘイゼルに両価的感情上を、押しつけると同時に否定しており、さらに自分たちがそういう感情を彼女に抱いたということを否定し、さらに他人がそれを否定しているということを彼女に押しつけようとするのである」(305頁)。
 言ってみれば、彼女たちのパーソナリティの領域はすべて両親の妄想語りで埋め尽くされている。いわば「彼女は、自分自身で見たり考えたりすることは禁じられている」(68頁)。だから、「彼女はいつも父や母が彼らの意見を自分に押しつけると感じていた」としてもおかしなことではない(45頁)。
 そして、そういう状況下におかれた娘自身の方も、自分の経験と自分の想像の区別がつかなくなってしまっている。「まず第一に彼女が表現する問題の重要さということに関して彼女自身が不確かだという点で、第二に彼女が本当におこったことを述べているのか、それともすべては彼女の想像なのか疑わしいという点で、特徴がある」(66頁)。あるいは「彼女のもっていた関係観念は、両親の間で、自分の見ぬけない何かがなされている、多分自分おことについての何かがなされている、ということであった」(38頁)。「事実そうだったのである」38。「マヤから同様の指摘を受けたときも、彼らがそれを本当だと認めることができなかった結果、マヤは両親の間で現になされつつあることをいつ自分が知覚しているのか、いつ自分が想像しているにすぎないのか、を知ることができなくなってしまったのだと、われわれには思われる」(38頁)。
 しかも、こうした娘たちは、家族関係の外側で自分の現実感覚を確認する場所を確保することが、難しい状況におかれている。「われわれの印象では分裂病患者の家族は他の家族と比べると比較的閉鎖的な体系であり、未来の患者は特にとういう種類の家族体系の中に封入されているものである」(297頁)。「ルーシーは、他人が彼女の家族を奇妙だと思っているのを、感じないわけにはいかなかった」(70頁)。「しかしながらルーシーにとって家族以外の人々と直接関係をもつことは、どんな関係であれむずかしいことであった。自分が彼らをどうみているか、彼らにどのようにみられていると自分で思っているか、彼女が自分自身をどうみているか、これらのことはすべて、父に仲介され、且つ母にバックアップされてはじめて知りうることであった」(71頁)。
 それでも、娘たちが自主性を発揮したり、自発性を見せたりすることがある。しかし、それはしばしば「病気」として処理されてしまうのである。病気になる前はよい子だったのに、「病気に」なってからあの子は変わってしまったと(31、95、189、206、233-4、272、320頁)。「彼らは、メアリーの実践を社会的な場において十分理解可能な表現と考えることはしない。彼らは彼女の立場は取るに足りないものと考え、彼女の「動き」は神秘的な、まだ規定することのできぬ病的過程によって生じたものという過程で説明するのである」(266頁)。ところが、その病気がなんたるかと言えば、「父や母にとって、また兄にとっても、ルースの「病気」の主な兆候は両親に対する悪口と恨みであり、コントロールできない行動であった」(207頁)。
 こうした彼女たちは自分自身が何ものであるのか分からなくなり、せいぜいのところ、自分自身の内に引きこもるしかなくなってしまう。「すなわち彼女にとっては自分で自分をみることは次の場合をのぞいては困難なのである。すなわち、父や母にみられているように自分をみるか、父や母が「他人」がおまえのことをこのように言っていると彼女につげるのにしたがって自分を考えるかする以外には困難なのである」(72頁)。「われわれのみたように、彼女が自分の体験の構造を信じなくなってしまったのは、物事に対する彼女の見方の正しさを確認し、その社会的な効力を評価してくれる重要な他者を、彼女が見つけることができなかったためである。その重要な他者を発見できなかったことが自己の体験への不信以上に彼女を落胆させ、失望させたのである」(75頁)。
 しかし、なぜ患者はすべて娘で、主犯格が母親なんでしょうね。また、レインがベイトソンに言及していることは覚えていたけれど、謝辞にゴッフマンの名前も挙がっていたことは完全に失念しており、注ではガーフィンケルとゴッフマンの著書も参照されていた。

狂気と家族【新装版】

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