勝俣鎮夫『戦国時代論』

 『一揆』と同じ著者による戦国時代論。これまた名著であろう。大変面白く、教えられるところ大。いや、斎藤道三の油売りから一代で戦国大名になったという話はもはや伝説のうえでの話にすぎなくなってしまうのですね。とりあえず、さしあたり知りたかった部分だけをメモにまとめてみると、

 下克上の思想というのは、単に成り上がり者が大名になるというだけの話ではなく、「家」の観念と密接に結びついており、いわゆる「役の体系」という話につながっていくような、一つの職分を果たすという発想ととても近いものがあるというか、それの前駆形態というべきであろう。その意味では、下克上と主君押し込め話は、同じ思想的背景を持っていることになる。

それは、鎌倉時代の親の継嗣決定権に優越する従者の協議決定園という、旧来の武家の通法にかわる新しい価値観の登場と、それを基礎づける政治思想にもとづいた新しい政治領域観の定着であった。すなわち、十五世紀には、将軍職も守護職もさらには地頭御家人の所領であっても、識所有者の私物ではなく、識所有者にはその責任をまっとうする「器量」を持たねばならず、これを現実に保証するものはそれぞれの家臣の支持以外にないという儒教的革命思想に裏付けられた政治領域観の定着であった(21頁)。
家を構成する家臣たちの意志こそ主人の意志であり、家の意志であるという観念が定着したのである。家という形態をとりながら、その構成員である非血縁者を多く含む家臣の公共の場、家臣の共有物としての性格を強く持ちつつあった(23頁)。
戦国大名は、その政治領域間にもとづき、それをみずからの義務とすることにより、その支配権の正当性を作りだしたのである(32頁)。
この戦国大名の支配理念を象徴的にしめすのが、戦国大名自身によってしばしば使用された「国家」という新しい言葉の登場である(32頁)。

 そうすると、主が「公儀」として「公」を体現するとしても、つまり、公が人格と結びついているとしても、その人物にそれだけの力量がないときには公と人格が乖離してくることになる。「公」とそれを体現する人物は「徳」によって媒介されるとでも言えばいいだろうか?たとえば、前出の『一揆』で、百姓一揆が神仏の代行として実質的に「公」を体現しようとする余地が生まれてくるのは、こうした構造とかかわっていると言えそうだ。また、これが役の体系につながっていくという指摘は、もちろん本書でも確認できる。

このような政治共同体としての国を保持することを目的として成立した戦国大名は、国民に対して保護義務を負うとともに、国の平和と安全を維持するための義務をその構成員である国民におわせる権利を獲得した。---。戦国大名の国民に対する保護義務をよくしめすものに徳政令がある(37頁)。
戦国大名が領国支配のために形成しつつあった貫高制は、軍役体制であるとともに、国民が国家に対してその職能に応じて役を負担する体制であった。このことは、中世後期の社会的分業の発達によって形成されつつあった職業と結びついた社会的身分を、大名権力が体制的に確定し統制していく方向を生み出す。すなわち、領国の構成員である国民の国家への奉仕体制として成立した貫高制、同じく豊臣政権のもとで全国支配体制として確立した石高制は、とてもに役の体制として社会的身分の国家権力による確定・統制をともない、それが新しい安定した国家の支配秩序の形成とむすびつけられていたのである(45頁)。

 また、戦国期は歴史の大きな転換期であり、「近代の村の母胎となった新しい村の成立が、家とともにその後の日本社会に規定的性格を付与したもの」と言えるが(93頁)、その惣村の特徴の一つとして村請制の成立があげられる。つまり、徴税が農民単位ではなく村単位で行われるようになったのである。これは幕藩体制下での統治体制を導く契機になったと否定的にのみ把握されるべきものではない。

自生的に生まれ、自律的・自治的性格をもつ村が、社会体制上の基礎単位として承認されるようになったのは、この村請の成立によってであり、荘園制から村町制へという観点からみるとき、ひとつの画期をなす農民側の達成とみることも可能であろう(95頁)。

 というのも、これにより村が自立した社会的単位となっていくからである。

荘園領主は、村請の成立により、その請負部分との関係で荘園を支配するにすぎず、その他の部分は領主の手から村へと移行してしまったということである。---。この結果、領主の支配は、実質的には請け負われた部分にのみ限定され、これら荘内の仏神免田・井料免・池免などが領主のもとをはなれ村の管理・運営にゆだねられ村の所有物(惣有地)へと移行していったのである(100頁)。

 実際、先にも記したように支配者との関係は双務的契約的に把握されていた。

百姓側は、「公儀を調えること」また「在庄すること」をとおして、所領を確保し、「地下を安堵」させることが領主の義務であり、責任であると考えていたのであるが、さらに注目されることは、百姓がこのような領主の領民保護義務と地下の忠節・奉公を、あたかも主従制における「御恩」と「奉公」の関係のように相互交換的にとらえている点である(121頁)。

 これは、近代における部落の相対的自立性という話の母胎になるような指摘だ。もちろん、村の自立性を維持するためにはその財力や用役が必要になる。ここに従来とは違った「公」の概念が生まれてくる。

村という「公」のために納入され、「公」のために支出される村の「公事」として家役は存在したのである。荘園制のもとで領主が収納し、分配する共同体費用としてのの公事が貢租化し、その本来のありかたが形骸化する中で、新しい村落共同体の成立にともなって、村がその共同体メンバーに賦課する村の「公事」が家役という形で誕生していることが知られるのである。---。この村公事としての家役は、この訴状にもみられる藩などの公的権力が賦課する家役とは別種のもので、公権力が賦課する家役は、---、村のすべてが家に賦課するのではなく、一定の建造物の基準をみたす「本家」のみに課され、この家は「役家」「公事屋」と呼ばれた。そして、「うしろ在家」といわれる、「本家」と認定されない「後家」は、正規の家と認められず家役賦課の対象からはずされた(111-2頁)。
この本家と認められた家に住み、その家建造物に課される家役を負担するものが、中世において惣百姓、近世において本百姓とよばれた村の正規の構成メンバーであった。村の身分秩序は、その居住する家によって構成されていたのであり、家が村内における村民の身分を規定し、その居住者のステイタスシンボルであったのである。そして、村の公事がこのような家を単位とした家役の形態をとるということは、村と村民の家との特別な関係を表示していたのである。村の存立は村民の家の存立と、また村民の家の存立と不可分の関係にあったと考えられるのである(112頁)。

 著者はこうして惣村に登場してくる「公」の発想と平等と結びつくものとして、高く評価している。

共同の世界を意味する公界のひとつの形態として、この公の思想を原理的軸に、下から創り出された共同体が、中世後期に出現した「惣」と呼ばれた自立的・自治的村落であり、また地方自治都市であった(132頁)。

 従来の

朝廷を頂点とするオオヤケ構造は、その下に重層的に存在する、それぞれの地域の首長を頂点とする地域的オオヤケ構造に支えられ、それを階層的に編成することによって成立していた(130頁)。

 ところが、

とくに中世後期は、---、共同・公正・平等などの意味の「公」が広く使用されるようになる。---、それを代表するものが「公平トハ、くがいと云う事也」ともいわれた公界であった(131頁)。

 ただ、各自が各自の持ち場を果たすことが「公」であるという意味においては、「公儀」が「公」を体現することと同じ構図が見られると思う。それに、一方で気になるのは、村の正規のメンバー足りうるかどうかで、やはり本家分家みたいなヒエラルキーができあがっていく側面があるみたいだということ。また、こんな記述もある。「ところで、このように自立した村落共同体の独自の秩序にもとづいて年貢が納入され、田畑が所持される体制が村を代表し、年貢を収納する番頭の力を増大させたことは当然であった」。「この村請制の時期と荘園制化の有力農民の買得による土地集積にもとづく急激な地主化への道は軌を一にしている」(100頁)。

 そんなわけで、ちょっと気になるところはあるものの、ここにはいわゆる日本の伝統的な「公」の観念と重なりながらも、自立と平等という異質の観念が入りこんでくることで、違った相貌をも見せる「公」の概念が登場していることはたしかなように思う。これは、前出の『百姓成立』における「共同的所持の観念」にむすびついてくるものだろうし、それ以上に、前出の『一揆』の話を踏まえるならば、一揆の思想から生まれ、さらには、それを支える観念がここに結実しているのといってよいのだと思う。

戦国時代論

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