戦国法成立史論

 やはり、勝俣本は面白い。こうやって各論文を読んでいくと、戦国期に成立したアジール的な「一揆」=「公」の空間が戦国大名によって簒奪されていく過程が織豊政権で一応の完成を見て、近代日本社会の原型が作られていくのだなというイメージが読み取れる一方、この強力な私的制裁の観念はこの相殺主義によって骨抜きにされていくと考えてよいのだろうか?相殺って発想はどのあたりから出てくるのだろう?
 鎌倉期には、姦通にさいして、とりわけ、「本夫の自宅における姦夫の殺害は、現実処理の行為として、社会的に容認した慣習として存在」したと想定され(12頁)、御成敗式目の密懐法はかぎられた基盤しか持たなかったと思われる。また、この本夫宅という限定は、立証上の問題とあわせて、アジール的性格を有する自己の家における成敗権と関連していると思われる。戦国期の分国法には、この従来の慣習を反映するかたちで、本夫による姦夫・姦婦の成敗という法理が現れてくるが、それは私的復讐を抑制し、国家刑罰権を浸透させるために相殺主義を採用したと思われるということ。
 また、こうした相殺観念は、個人を超えて、郷や国の問題に容易に転嫁したと思われることが質取行為から伺えること。信長秀吉に帰される楽市楽座令であるが、楽市場はもともと「世俗的所権力とは全く無関係に社会的慣習として容認されたアジール的場として存在し」ており(73頁)、楽市楽座令ではむしろ、そうした楽市場を権力が保証することによってその基本的性格が失われたとみなされること。
 徳政を号して土一揆が起こった背景には、「南北朝期以降の惣村の成立に見られる「農民の定着」にともなう「百姓の自己の保有地のに対する一種の権利意識の確立、それを通した百姓身分・百姓の階層としてのあり方の形成が社会の諸階層のなかで、土一揆がとくにその蜂起の主体としての「土民」を正面にかかげる一つの理由があったと考えられる」こと(107頁)。
 「恵林寺の場合、荘園性の基本的年貢たる本年貢・公事・夫役のみならず、名主加地子得分・作食得分までをも大名権力は検地に把握し、これを貫高制の貫高に一元化したことが知られるが、この事実は、この検地が領主の指出徴収による方式ではなく、基本的には、いわゆる「百姓指出」方式をとったことを明瞭に物語る」(226頁)。
 戦国法の成立過程にあたっては、国人たちの一揆契状が先行し、媒介的な役割を果たしていること。「一揆契状とは、在地領主(国人)が自己の領主権益を擁護する目的で地域連合たる一揆という集団を結成し、その成員の集団における広域半たる契約事項を遵守することを制約した領主間協約=法とされている」(237頁)。「在地領主は、構造的にもたらされた極めて激しい領主間対立を克服するため、相互の紛争を「縁」にもとづく自力で解決する手段を放棄し、紛争解決を目的とする新しい「平和」団体を創出したのである」(240-1頁)。「この平和確保を目的とする一揆は、その契状がすべて、仏神が違反の有無を判定する保証者としての地位をもつ起請文形式をとることからも知られる如く、上部権力を必要としない、それと無関係な私的な自立権力として形成された」(241頁)。
 戦国大名権力はそれでもおさめきれない領主間対立の調停権力として登場するのであり、「在地の「公」を包摂する権力の「公」の拡大、裁判権の公権力への集中・強い権力意志をになった法の定立は「国人一揆に典型的なかたちでみられる領主階級の自己否定を媒介としてはじめて可能となったのであり、同時にこのことが、戦国大名権力の基本的要因であったと把握しうるのである」(247頁)。
 また、このとき採用される喧嘩両成敗法は未然に「自力救済行為としての私的復讐を絶ち、大名裁判権のなかにこれを強制的に吸収するため」の威嚇的立法であると考えられる(252頁)。
 

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