勝俣鎮夫『一揆』

 この本が名著であるということは学生時代から聞き知っていたはずなのになぜかこれまで読まずに来ていた。あの頃、網野本は散々読んだのに何でこの本は読まなかったんだろう。ともかく面白いし、いろいろと分かった(つもりになった)ことがある。

 この本に冒頭にはこんな話が出てくる。鎌倉幕府が執権泰時の時代に「幕府を構成する個々の構成員の私的利害から相対的に独立した公的機関を創出して、公権力の基盤をかためることを目的」として、財務および評定の最高意志決定機関として評定会議が設定され(1225年)、さらに御成敗式目が制定される(1232年)。このとき評定衆は起請文を書いて「一味同心」する。つまり、御成敗式目一揆を介して制定されたのである。

評定衆のメンバーは、現実には将軍の家臣として、また強固な族縁的集団の一員として、その社会規範にしたがって日常生活を営む存在である。その同じ人間が、評定衆のメンバーとして、「評定の場」「理非の決断」という特定の場、特定の問題に限定して、その日常的ありかたを使用して、非日常的な「公正な人間」になることを求められたとき、彼らは、自律的集団である一揆を結成し、この困難な課題にとりくむことにしたのである(11頁)。

 つまり、「公」の観念をつくり出すためには「一揆」が必要だったのだ。たとえば、他にも、村法ももとをたどると一揆契約状に行き着く(82頁)。しかも、「一揆に張本人なし」と言われるように、そこには平等の意識があり、物事は多数決で決められた(75-6頁)。
 こうした「一味同心」による誓約は、平安時代から見られ、神を媒介として人と人とを契約的に結びつける「一味神水」、共同飲食の儀式を必要としたのだという。また、平安末期に多々見られた寺社による理不尽な強訴もこうした「一味神水」に基礎を置いていた。

血縁的な関係で結ばれた人びとなどの結合をのぞいて、他者との連帯や共同がきわめて困難であった当時の社会状況のなかで「同心」、私的な縁にもとづく行為を最大の行為基準としていた社会のなかで、その「縁」を越えたところにうまれる「公正さ」、「参加メンバーの集団内部における「主体性」の実現、一揆集団の上部権力からの強い「自律性」など、これまでみてきた一揆の諸特性は、このような一味神水にもとづく神と人、神を媒介にした人と人の一体化の意識が大きく作用していたと思われる(34頁)。

 だとすれば、「一揆」は一種の社会契約に相当すると言ってもよいだろう。そして、南北朝から戦国時代にかけて、「武士、庶民などの身分や階層、僧侶、俗人などのありかたをとわず、一揆が全国いたるところで結成されただけでなく、この時代には、一揆という集団が、社会構造上の一翼をになって、政治的社会的に、体制を規定する力になっていた」(60頁)。

この時代の社会構成上の転換には、中世前期において一般的であった武士団の結合の解体、新しい農業共同体としての惣村の成立という社会集団のありかたの変化がその基底に存在した。---。(武士団については、)それまでの基礎にした惣領性のもとでの「分割相続から嫡子単独相続へ移行し、かつて惣領家に従属していた諸子家は、それぞれの一つの家として独立し始める*1。---。このような転換期の状況のなかで、これらの家や村をそれぞれの目的にしたがって結集する集団として、一揆が広く結ばれたのは、けっして偶然ではない(61頁)。

 そして、百姓の成立そのものと一揆自体が深い関わりをもつものであったという。

「荘家の一揆」の成立、さらには「土一揆」への展開は、惣村という今日の農村の母胎となった村落共同体の成立と密接な関係をもっていたのであるが、このことは同時に、新しくじだいに生み出されてきた社会身分である「百姓身分」の形成とも深くかかわっていた。この百姓という共通意識が、農村における惣的結合、さらには農民一揆の基礎に存在したのである(95頁)。

 その中心にあるのは、「百姓は地につきたるもの」という土地と結びついた存在規定、アイデンティティであった(97-8頁)。それは、「土地と本主のあいだに存在すると考えられた一体感情」に根ざしたものであり、「このような土地所有観念が、長年の耕作の事実によって、百姓がその土地に保有権を確立させていった核になった観念であり、社会的に認知された百姓身分を生み出したものであるとともに、それは、徳性要求の正当性をささえた基本観念であったといえるのである」(162頁)。だから、たとえば、太閤検地や刀狩りは、百姓に対する一方的な従属関係をつくり出したとだけ考えるべきではなく、他方で、百姓という身分が「国家」の構成員として認められ、その田畑の保有が保証されるという意味あいがあった。

 そして、こうした百姓という身分と結びついた意識は、中世末期の土一揆や徳性要求だけでなく、幕末の世直し一揆においても噴出してくる。

幕末から明治初年にかけておこった世直し一揆のスローガンは、「世直し」であるが、その要求の中心をなしたのが、質地の返還、貸借の破棄であり、その行動の中心をなしたのば豪農や豪商の家や財産の破壊である「打ちこわし」であった。その要求はおよび行動の形態面で言えば、基本的には「徳政」をスローガンにかかげた徳政一揆とそれほどの相違はなかったといえる(86頁)。

 また、こうした幕末の「世直し一揆」の底で渦巻いていたのは、その起源において人びとを一揆へとで媒介した神観念であった。

このような一味同心の決定、一揆の行動は、神の意志をになっているという意識は、その後一揆を結ぶ人びとに、ながく継承されていったことが知られ、もはや、そのような観念が一般的にはうすれてしまった江戸時代においてもなお、百姓一揆のなかには、この観念が強く一貫して流れているということが知られる(24頁)。
このような、みずからを神ないしは神の意志の代行として位置づける潜在的一揆の思想が、転換期の境界状況のなかで顕在化したのが、世直し運動においてであったと思われる(132頁)。

 百姓一揆のメンバーは、自らを鬼神に見立てて蓑笠姿で乞食や非人の格好をして一揆に加わったという。「彼らは「異形」になることを通して一時的にアウトローに変身し、幕藩体制下の法的秩序に反抗したのである」(122頁)。ここに天あるいは神を媒介として体制の外に出るという意識を見出すことができ、そこには新しい世界への希求があった。一揆がおこったのは、しばしば代替わりのときや天災であり、それは「破壊と再生」という意識にかさなる。彼らが希求したのは、「「世直し」を「世ならし」とも言ったように、「平等な社会」」であり(191頁)、そこには「「小農への回帰」の願望が強く存在したといえる」(191頁)。

 というわけで、こうした一揆は一面において「身分形成の論理」として社会のヒエラルキーを再構成する役目を果たしていたといってよい。たとえば、百姓を惣村に結集する一揆は、さらに惣村を結集する一揆へと発展していく。

一揆はすでにみたように、本来、身分階層なあどにかかわりなく、心を同じくするものが連帯することを目的として集団であるが、現実に結ばれた一揆は、領主の一揆、農民の一揆、僧侶の一揆、町衆の一揆なだお、同じ身分、同じ階層、同じ職業のものが多かった(95頁)。
惣村自体は閉鎖的な集団として形成されたのであるが、その閉鎖集団を一単位とする一揆を結ぶことにより、より広い共同の場をつくりだしていったのである(91頁)。

 また、こうして結ばれた一揆が日常化し、太閤検地に見られるようにさらに身分間のヒエラルキーに組み込まれていくようになれば、それはいわゆる日本的な「公」の観念を体現した構造になるだろう。つまり、「公の場」が「公儀」に転換していくわけである(80頁)。つまりは、「役の体系」の成立である。
 だが、その一面で、自らに保証されているはずの「百姓成立」が立ちゆかなくなる事態にあっても体制の庇護が受けられないとなれば、それはそれぞれの持ち分を果たしていないということで、一揆は既存の体制を乗り越えていく契機をも含んでいた。こうした一揆に集う百姓たちを「マルチチュード」と呼んでみたくなるのだがどうなのでしょう?たとえば、勝俣氏はこんな風にも記していた。「このような世直し一揆のなかに、ことさら参加主体の倫理性、規律を求めることは、私にはあまり意味があるとは思えない。---。むしろ重要なのは、規律をよびかけたなかにもその目的として明確化されている「猫のわん」まで打砕けという破壊の意味であろう」(187頁)。

一揆 (岩波新書)

一揆 (岩波新書)

*1:これは、たとえば、応仁の乱が、将軍家をはじめいくつもの家督相続争いと結びついていたことをかんがえれば、事態がよく分かると思う。