実験室としての都市

 というわけで、なんか気になるのでパークも読んでみた。一部、下線が引いてあり、購入時に読んでいるらしいのだが、ってか院試の時もシカゴ学派のお勉強はしているはずなのにまったくアタマに入っていないことを思い知らされている。しかし、いまやよい値がついてるな。最初は完全なエッセイというか自伝的回想から。これを読んでるとパークがかかわった世界をシカゴ学派という大学の世界でまとめてしまうのはどう考えてもおかしいというか狭すぎる。
 都市は多様な可能性をもたらす社会変動の中心に位置づけられており、取りあげる論点がブルーマーとかぶっているからそのままブルーマーの指摘の妥当性が確認できてしまう。地域研究、一組織の特徴と歴史的な生活史。都市は自然発生地域の複合である。たとえば、都市と郊外。一方、コミュニティは文化単位を形成する。社会関係は個人間の諸関係である。社会問題もそこに生じる。日本人移民の例が挙げられている。で、役割を生きることになる。また、人種問題の一面はコミュニケーション問題であり、社会的距離にかかわる。偏見の起源も人間性や人間の諸関係に由来する。地位の変化と社会組織の変化が起きる。安定していた奴隷制。その後の社会解体の影響。カテゴリー。身体的特徴の差異がもたらす不安。触覚と臭覚に関わっている。もっとも因習的な起源に求められる。儀礼的慣例と社会的慣例がもたらす社会的距離。移住、社会秩序の崩壊とよそ者。身体的特性の差異、二つの社会の境界を生きるマージナルマン。分裂した自己。等々、ジンメルを想起させるところがかなりありますな。
 サムナー、個人に押しつけられる習慣、概念の定式化。トーマスとズナニエツキ、個人は経験によってものごとの意味を変え、異なる社会的態度をとる。集団にはいずれも想話宇宙(価値)がある。個人の基本的な傾向と社会統制の基本的な傾向の不調和は動的なものである。そこに生じる個人の主観性と生活史。態度には本能的な気質と反省的で知的な性格とがある。個人は自分の経験の制約の下で状況を定義する。「それゆえ、ある領域内で社会的パーソナリティとなるためには、個人はこの領域内で対象が社会的意味を持っていることを理解しなければならないだけでなく、こうした意味の観点から社会が求める要請に適応する方法と、自分の私的な目的のためにこれらの意味を制御する方法を共に習得しなければならない」(144)。こうして人間は自分の経歴を持つ。子供は、自己意識と自分自身という概念を発展させ、いくつかの社会集団での自分の役割を明らかにする。
 あとは、人間生態学;都市の機能的配置は自然的条件のもとで、優先・競争という要因に支配される。ただし、習慣の制約を受け、共生と文化の二つの層からなる。適応的な「直接の知識」と伝達可能な「対象についての知識」、体系的科学的知識。ニュースはこの二つの連続体のあいだに位置している。新しさ。想話宇宙とうわさ。
 というわけで、二元論的な生態学に本能と知性の二元論、ミードをかませなくても、パークやトマスにブルーマーの議論の原型を見出すことはそれほど難しくはなさそうである。

実験室としての都市―パーク社会学論文選

実験室としての都市―パーク社会学論文選

 
都市―人間生態学とコミュニティ論 (1972年)

都市―人間生態学とコミュニティ論 (1972年)

 
都市化の社会学 (1978年)

都市化の社会学 (1978年)