産業化論再考

 未発表草稿を書籍化したもの。内容的には途中で結論が見えてしまったものをたらたら読んでいくので退屈してしまうのだが、執筆当時発表されていれば、ここで展開している議論の含意も、これだけ丁寧に書かなければならないわけも理解できる。読みながら思い浮かべたのは、パーソンズの機能主義に対する批判、ブルデューウェーバー、この枠組み的な議論を具体化したものといえる研究をものしたエリアス。
 まず、最初になされるのは「産業化」という概念の定義である。従来の「産業化」という概念がいかに曖昧か、日常的意味が特定の具体例にひきずられすぎていたり、研究者もその延長で隣接概念とはっきり区別していないことが確認される。
 そこで、経験的に基礎づけられた予備概念の設定にとりかかる。産業化は経済システムの一類型であり、位置機械的生産の中枢、獲得と分配の付属するネットワーク、付帯サービスの構造から構成されている。三つの組み合わせを考えてうち機械制生産の導入が作業化の必要条件とみなす。
 次に、産業化が集団生活にどのように作用するのか、既存の文献から五つの産業化のとらえ方がピックアップされ検討に付される。これらは不十分なものではあるが集団生活への作用という観点から「産業化」という概念を彫琢するには有益であるとされる。そこから引き出される産業化の枠組みは、①職業と地位の構造、②職業、職務、および地位の充足、③新しい生態学的配置、④産業労働の体制、⑤社会関係の新しい構造、⑥新しい利害関係と利害集団、⑦貨幣的、契約的関係、⑧機械性生産過程による商品生産、⑨産業構成員の収入パターン。というわけで、以上が産業化が集団生活に侵入する経路だということになる。
 ちなみに、ブルーマーはシンボリック相互作用論の研究方法を提起するにあたって、研究する経験的世界と研究をつなぐものとして「概念」の重要性を指摘し、この概念とは「感受的」なものであるとされていた。ここでなされているのも従来の経験から引き出された概念を吟味し、「産業化」という概念を仮説的に構成するものとなっている。次は、社会変動の動因として産業化がいかに作用し、機能したのかを考察する。
 ここでブルーマーが指摘し、確認していくのは産業化の過程の中立性である。すなわち、前述した九つの経路における発展、展開の仕方には様々な可能性があり、なおかつ、その特定の発展が産業化の過程の決定因にはなりえない。もちろん、産業化の過程はこの九つの経路に制約を加える。しかし、その社会発展の幅はきわめて広く多様である。また、産業化の過程で産業化以外の要素(社会的背景)が加わわるがこれらの関わり方も複雑かつ多様である。産業化の過程と社会的背景は相互作用する関係にある。
 産業化が何をもたらしたかということでは、もう一つ伝統的な秩序が産業化にどのように対応したかということが挙げられる。伝統的な秩序は産業化の社会的背景の少なくとも一部に相当すると言ってよい。その対応の仕方は少なくとも五つにわけられる。①拒絶的、②分離的、③同化的、④支持的、⑤破壊的。ここでも産業化にたいする伝統的な秩序の対応には様々なかたちがありえ、二つは相互作用する関係にある。また、二つの結合以外の要素も多様な形で介在しうる。
 さらに、産業化はさまざまな混乱をもたらす。その主要な経路は①適応すべき未知の場面の導入、②伝統的な秩序の解体、③新しい諸力の解放であり、それは①心理的混乱、②社会的解体、③抵抗的反応、という形で現れる。しかし、ここでも、産業化の影響はそのなかで行為する人々や政府の反応に依存しているし、他の要素も考えられる。というわけで、産業化の役割はどこまでも中立的である。
 「産業化が多くの社会変動をもたらすということは否定できない。しかしそれは開始されるであろう変化の性格や形態、またその範囲を左右するわけではない」(186)。他方で、「産業化過程と、それが進入していく集団生活との相互作用を詳しく分析すれば、その過程の中立的な役割をずっと効果的に示すことができる」(204)。産業化の過程は、集団生活のより大きな社会過程のなかで、集団生活と接触する地点で作用する。そうすると、そこに影響を与えようとする「社会政策」は重要な役割を占めるだろうと結ばれる。ただ、社会政策の働き方も、産業化の過程と同じように、一意的、因果的に決まることはないはずである。だから、ここでも同じ課題が生じる。ブルーマーはそれに気づいていたのか?ただ、本書の記述は、この社会政策の重要性を指摘するところで終わっており、しかも、その前にはよく位置づけのわからない理念型の話がくる。ということで、かなり議論は整理されているが、最終部分は未定稿なのだと思う。
 いずれにせよ、産業化の過程を何らかの形で一対一対応するような因果的な分析に回収することはできない。それが、ここでは「中立性」と呼ばれる。なぜそうなるかといえば、産業化も含めた社会過程は、ブルーマーのシンボリック相互作用論に依れば、個人や集団の相互作用からなるからである。そして、相互作用の帰結もあらかじめ一意的に決まらない。そして、それは人間が内省することに求められていた。というわけで、この議論はシンボリック相互作用論と整合的に作られている。また、シンボリック相互作用論がどれほどシカゴ学派の系譜を受けつぐものであるかは、産業化の過程もその一部に含まれるであろう初期シカゴ学派の研究とつきあわせてみればよい。
 他方で、これをシンボリック相互作用論のミクローマクロ・リンクというように理解するとき、わたしには何がミクロで何がマクロなのかがよくわからない。結局、中立的であるのならなおのこと、産業化の過程の描写も局域的になされなければならないし、研究者が分析する以前に、たとえ不十分と評価されようとも、個人や集団も一部では状況の定義というかたちで自分たちの経験を描写しているであろう。これがミクロ−マクロだというのなら、それは、研究者が「産業化」という感受概念を一般的に設定して産業化の過程を描くことで、それがあたかもマクロなオーダーとしてミクロな秩序と区別されるかのように記述されていくからではないだろうか?いずれにせよ、具体的な分析もみてみたかったな。
 

産業化論再考―シンボリック相互作用論の視点から (Keiso COMMUNICATION)

産業化論再考―シンボリック相互作用論の視点から (Keiso COMMUNICATION)