個体的所有と人格崇拝

 このところ、講義の準備のためにデュルケムがらみのものをいろいろ読んできたのだけれど、たまたま、この平田清明の引用を読み返して思うに*1、平田が個体的所有というときの「個人」って、デュルケムのいう人格崇拝の実現された個人主義の世界のそれと意外とよく似ていたりはしないだろうか?
 たとえば、ムッシュ宮島は次のような説明をあたえていますが。

したがって、この近代の個人主義は、伝統からの個の解放を前提としながらも、その個に内在する尊厳からではなく、社会が、そして社会に共有されている道徳意識がこれにみとめるところの尊厳によってはじめて成立する。いいかえれば、個人の自由や尊厳は、社会に共有された客観的・集合的規範であることによって、はじめて保証されることになる(92頁)。

 あるいは古典的な二次文献ですが、アルパートは次のように述べてますな。

 人間のパーソナリティの高い道徳的価値の概念は、それ自体が社会の進化の所産であり、人間は社会の中で、社会を通してのみ、その個性を取得するのであり、社会が複雑になればそれだけ、つまり、社会が相互の機能的相違に依存するようになればそれだけ、個性はより一層発展するものであることを、彼は示そうとしたのである(127頁)。

デュルケームと社会学

デュルケームと社会学

ただし、単なる思いつきで書いてます。はい。