ベーシックインカムは究極の社会保障か

玉石混淆。BI批判は、あんまりBIに関係のないというか、現行の社会保障の不備をもっぱら問題としている。その中で目立つのは後藤道夫がニーズに基づく現物給付とニーズに依存しない現金給付(たとえば介護保険)の区別。しかし、BIを導入することは必ずしもニーズに依存した社会保障をなくすことは意味しない。
一方、左派系のBI派は自分たちをネオリベ系のBIと区別することを強調する。「生存と労働の分離」。ただ、この違いもよく分からない。働かなくてもよい社会でも誰かは働かなければならないし、働く人がいるわけで、完全に労働から切り離すことはできない。そうすると、負の所得税との違いは相対的なものにすぎないように思える。制度設計をどうするかは、BIの問題から独立ではないだろうか?たとえば、社会保障のどこまでを含めるのか、雇用の流動化をどこまですすめるか(しかし、まったくすすめないというのは考えにくい)。
また、最低生活を金銭的に保障することは必ずしも最低生活を保障するとはかぎらないということはありうる。結局、かしこく使えるかかどうかを自己責任してしまうと、別の格差問題が生じそうだ。たとえば、ある種のコミュニティを作れる方がどうしたって規模の経済がはたらくはずだが、みんながみんなそうしたコミュニティを作れたり、参加できるわけではない。そうすると、最低限ある種のパターナリズムは必要に思える。
そこに、民間社会保障会社のようなものが出て来るのか(ノージッックみたい)、現金給付の利用も含めたこれまでよりはこまやかな公的扶助を考えるのか。これだと、いまの社会保障のなかでニーズが多様化しているものについては現金給付に切りかえたり、民間に任せたりする方向に舵を切るということでやはり制度設計の問題に移行する。そして、こうなってくると労働のモーチヴェーションの問題とは別に、全額BIで最低生活保障をするのか、それとも現物給付的な社会保障を残すのかという話がでてくる。
って、考えるとBIって現行の社会保障をみなおすときの現金給付の意義を考えるための半ば思考実験の道具というか、どう考えてもBI以外の制度設計についても考えないと、BI単体では人によって違ったイメージが描かれたままになるだけのように思えた。
 

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

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