山森亮『ベイシック・インカム入門』

 目配りのきいたよい本だと思った。ボク自身、ベイシック・インカムってどれほど現実味のある話なのかという疑問が先にたって、あまり立ち入ってこの問題について考えてみようと思ったことがなかったのだが、ベイシック・インカムにつながっていくこれまでの様々な運動や思想的営みが紹介されていくのを読むうちに、実際にどこまで実行可能かはともかくとしても、もっと真面目に取り上げられ検討されてよい議論だと思った。
 読んでいてまずあらためて思ったのは、そもそもわれわれの労働観がこの間に180度と言ってよいほど変わってしまっていることだった。この本では、まず福祉国家の理念やワークフェアに疑問が向けられる。福祉国家ワークフェアの発想に結びつく理念として、ここでも言及されているように「働かざる者食うべからず」という発想がある。本書ではこの手の話をあまりしていないが、近代にあって労働は必ずしも苦役ではなく、すべての労働についてではないかもしれないが、個人の尊厳の備給先として把握されてきた側面があることは否定できない。
 だが、不安定で賃金も低く抑えられた就労形態のなかでやりがいを見出すことは難しい。また、一見すると安定した職を得ている人にしても、競争の激化や不景気のもとでは、不安な意識を抱えて働き続けなければならない人は決して少数派ではあるまい。しかも、こうした人たちの労働って、しばしば、労働時間と余暇の時間の区別が曖昧だ。リーマン・ショック以降はどうなのかよくわからないけれど、少なくともちょっと前までなら、高所得者の方が労働時間が延びる傾向にあったわけだが、それは仕事が楽しいからですなんて人はいったいどれくらいいたのだろうか?つまり、人間生活のなかで働くということの意味づけが貧しくなってきているというか、働くこと自体の価値が貶められて来ているのだ。
 そんな状況下で将来どうなるかも分からないのに「働かざる者食うべからず」とか言われても、「まともな仕事もないのに」、あるいは「こんだけしんどい思いをして働いてきたのに」、なんでそんなことまで言われながら働き続けなければならないのかという疑念が生まれてくるのはかなりまともな反応であるように思う。だとすれば、働く「苦役」とは別に、少なくとも食う寝るぐらいのことは保証しろ、と。そうやって人間の尊厳が守られる機会が確保されてもよいのではないか?

この背景には、ネオリベラリズムの下で進行する雇用の不安定化がある。経営者はEUや各国の官僚・政治家たちが雇用の柔軟性として言祝ぐ事態を、こうした運動に集まる人たちは不安定性=プレカリティとして拒絶する(262頁)。
なぜならそうした産業では、労働組合などが組織されておらず、たとえ雇用されている状態では比較的高賃金を享受していたとしても、ひとたび解雇されれば貧困に陥ってしまいがちだからである。そして対案として求めているのは、主流派の左翼が求める完全雇用=生涯勤められるような安定した職ではない。柔軟性を、新しい産業形態に不可避のものとして受け入れつつ、しかし生活の保障を求めていくという方向性である。柔軟性と保障を掛け合わせた造語「フレキシュリティ」はこの方向性を表す一つの言葉である。そのための選択肢の一つがベイシック・インカムである(263頁)。

 本書では、イタリアのロッタ・フェミニスタやアウトノミア、青い芝の会といったベイシック・インカムにつながる主張を展開した具体的な運動が紹介される一方で、トマス・ペインあたりから、ケインズやミード、フリードマンといった思想的な営みのなかでベイシック・インカムにつながる発想がどのようの取り上げられてきたかが紹介されていく。
 ただ、やっぱりベイシック・インカムが入るとどんなことが起こるのかは不透明な感じがする。たとえば、ベイシック・インカムが導入されれば、不安定で待遇の悪い労働の賃金が上るだろうと思われるわけだが、そしたらさらにどんなことが起こるんだろう(どれくらい上がる?また、その余波は?とりわけ格差はどうなる?)とか考えていくと、どんな社会的条件あるいは制度の下でベイシック・インカムを導入するかで、それがどう機能するかもかなり変わってくるような気がする。
 それを考えることは今後の課題なのかもしれないけれど、そうした発想はとても社会工学的というか、社会を制度的にデザインするという発想に近づいてきてそれはそれでどうなのよという話になってくる。むしろ、青い芝の会の運動が紹介されていたように、既存の文脈のなかで待遇改善の一環としてベイシック・インカムを要求しながら、新しい社会を構想していくようなことができればよいのかもしれない。

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

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