地獄の黙示録

 さて、前回見たのはいつだか思い出せないけれど、追加映像を含んだ完全版とかいうもの。今回は、劇場公開版のデジタルリマスターということなのだが、私が知っている最後のあのシーンはなかった。二つのヴァージョンがあったのですね。こっちならエンドクレジットがあった方がいいのにとか、映像も音楽も70年代感たっぷり。シンセの使い方は確立されてなかってんだな〜、とかいった感慨はともかく、いま見るとおその恐るべきリアリティに驚かざるを得ない。
 映画は主人公の回想という形でモノローグ形式で進行する。主人公は故郷にも戦場にも身を置く場がない。そんなウィラード大尉に秘密の指令が下される。4人のヴェトナム人を二重スパイ容疑で殺されたカーツ大佐を秘密裏に始末しろというのだ。カーツはカンボジアで、米軍からもヴェトコンからも独立した自分の王国を築いているというのだ。こりゃ、米軍としては困った話だ。しかし、自分たちのしようということをどう考えているのだろう。エビ。
 しかし、自分たちの引き起こした戦争の過程で米国軍人が反米勢力を作りあげるというのは、いまとなってはあまりにリアリティがありすぎる。イラクフセインは革命後のイランへの米国の対抗措置が生んだ化けものだ。アルカイーダやISは、ソ連アフガニスタンへの対抗措置、あるいは米軍のサウジ進駐といったなんのためかよく分からない政策の落とし胤だ。つまり、ヴェトナム戦争以来米国は同じことを繰り返しているのである。そえは、米国のいや世界のためになっているのだろうか?この馬鹿げた戦いをさらにわれわれがなぞることになる。
 ウィラードを哨戒艇で移送するのは何のために戦うのか分からなければそれに疑問を抱くこともない20に満たない若造たち。奥地へ行く援助を得るために彼らと連れだって空挺部隊へ赴くのだが、そこには指令が届いていない。しかし、グループのなかに有名なサーファーがいると聞いて指令官(ロバート・デュバル)は移送を引き受け、ヴェトコンの支配地域を爆撃し、そこでサーフィンをやろうという。そして、この攻撃の過程で例のワルキューレがかかる。ワーグナーにサーフィン、この指令官はふつうならいかれてると思うのだが、わたしは何度見ても、この映画に出てくるいちばんまともな人物はコイツだと思ってしまう。いかれた戦争につきあうにはそれ以上にいかれてみせるしかないのだ。
 ヴェトコンの前線をくぐり抜けて行くと、そこではプレイメイトショーが行われている。しかし、ここは戦場のまっただなかである。あるいは、荷物を運ぶ輸送船を臨検する過程で誤って民間人を売ってしまい、病院へ移送するという哨戒艇の船長の言い分を無視して、ウォーレンは負傷した女性を撃つ。明らかに、彼は他の兵士と違った世界を生きている。兵士たちの生きている世界はどこか甘っちょろい。そして、こうやって川を上っていく過程で、秘密書類として渡されたカーツについての書類に目をとおし、ウォーレンは自分をカーツに重ねる体験をつづけていくことになる。そうして、たどりついた橋は米軍が守っているもののそこには司令官がいない。この戦争の行き着く先だ。しかし、船はそれを超えて進む。このあたりは『フィッツカラルド』を思わせる。
 そこはカーツの支配する王国だ。そこには原住民のような白塗りのヴェトナム人やカンボジア人(?)、米国軍人崩れがいる。たどりついて、最初に出会うのがカメラマンのデニス・ホッパーだ。わけのわからない宗教めいた世界とデニス・ホッパーを見ていると、それはヒッピー文化の行き着いた先のようにも思える。そして、そこでウォーレンはカーツとと出会うことになる。カーツが語るのは何よりも「ホラー」。そして、カーツはどこかで自分の死をのぞみ、ウォーレンが自分のことを理解できると思っているようだ。言ってみれば、ウォーレンは次の王になる資格がある。しかし、ウォーレンはカーツを殺しても、この地にとどまることなく、この地を殲滅することもない。この王国は永遠に終わることなく知られることもなく続いていくのだろう。そして、たしかに今も続いている。その正体があかされることはなく。
 最後に、この映画は、従来の戦争映画のお約束といってよい、戦友と女(恋)という主題を完全に裏切っている。それだけでもすごい。さて、ところで、この話、コンラッドの原作にどこまで忠実だったのだろう?
 

戦場の黙示録 (字幕版)

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闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

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