他者の言語

 学会後の予定だけを敢行して、秋の静岡へ

『王女A』(作・演出:松田正隆 演劇ユニット水蜜塔)

全編モノローグで展開する。モノローグといっても舞台上の俳優が客席に語りかける一人語りのようなものではない。誰かに語りかけるときのような間がほとんど感じられないほんとのモノローグ。その無機的なセリフを聞きながら、われわれが普段どれほど会話的な言葉のやりとりに馴染んでいたのかを意識せずにはいられなかった。上演後のトークで演出の松田が語ったところに拠れば、セリフが出てくるきっかけはすべてモノであり、モノと接触するところからセリフが出てくるようにしてあったのだという。この点は気づかなかったけど、それが他人から触発されない言葉だというのはよく分かった。セリフを聞いていても日常会話でそうなるように意味が頭の中にすーっと入ってこない。〈他者の言語〉だとでも言おうか。意味が脱落して、ただただ音声だけが入ってくるように感じられてくる。
 登場人物は、王女Aが消えて自らのアイデンティティが解体しつつある次女(+一人の男)たちで、自己を喪い始めている彼女たちがまさに他者を欠いたモノローグで語る。そんな状況が明らかになったところで最初に口をついたのはたしか「お母さん」だったんじゃないかと思う。アイデンティティが解体していくところで口をついてでるのが「お母さん」なのはなるほど*1。それが、モノローグが展開するなか、最後には女たち自身が母になり、男は兵士になる。この展開やなぜ次女なのかなどにもやはり計算があるはずなのだが、なにせ最初に記したように、はじめてだとちょっとつきあうのに忍耐がいるというか、セリフを聞く体験自体に意識が向かってしまうので、そのあたりはうまく感じ取れなかった。でも、もう一度見る機会があれば、かなり違った印象を持てるのではないかという思いが残っている。いつになるか分からないがその機会を待ちたい。

『別冊谷崎潤一郎』(演出:鈴木忠志 SPAC)

 『ブレイブ ワン』『ラザロ』と見て、最近、漠然と悪の思想性のようなことを考えていたら、今度はこれが来た。前作が三島の『サド侯爵夫人』を素材にしていたことを考えるなら、前回裏側から見た主題が今度は表側から見えるとでも言えばよいだろうか。芝居とはいいながら、あの鈴木忠志の独特の演出のもと、ひたすらゴリゴリと悪人の論理が展開される、それだけといってしまえば、それだけの筋二つの組合わせ。でも、いけないことをして言い訳すると「弁解するな」という言葉がとんできそうな社会にあって、この論理、この展開はきわめて異質だよな。それがむき出しでどーんと放り出されてきた。
 今回も充実してましたけど、けっこう体力要りました。

*1:その後、伊藤比呂美のこの発言がここに響いた。「母がね、病院に入院したばっかりのとき、やっぱり環境が変わりましたら、すごく混乱して、一時的に、見当識障害といって、夜中に騒ぐんです。夜中になると「お母さん、お母さん」と騒ぐというんです」(199頁)。

死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)

死を想う―われらも終には仏なり (平凡社新書)