自己の治癒

  ということで、当面のリハビリ的課題の二つ目、コフート三部作を読了。この三冊目は、かなりの部分が伝統的な精神分析に対して自己心理学を擁護する議論で、私には必ずしも分かりやすいとはいえなかった。しかし、こうした試みはもしかすると今の社会に精神分析を適合させる上で重要な課題なのかもしれない。

精神分析状況は、あるプロセスを動かしている。それは、分析者が多かれ少なかれ正確かつ適時な解釈を通じて患者に受けさせることになる適量の欲求不満を通じて、自己対象としての分析者とその機能との変容性内在化をみちびき、そしてこれによる心的構造の獲得をみちびくプロセスである(240頁)

 このとき「自己対象の理論が転移における患者の経験と子供時代の患者の経験の両方に関わるとき、自己対象の理論についての分析者の把握の仕方が―彼のする力動的、発生論的定式化の正確さ、幅、深さに強く影響を与えるであろう」(257頁)。
 この自己対象転移とは、
①「ダメージを受けた野心の極が自己対象から確認ー承認的反応を引き出そうと試みるそれ(鏡転移)、
②ダメージを受けた理想の極が、その理想化を受け入れるであろう自己対象をさがすそれ(理想化転移)、
③ダメージを受けた才能と技能の中間領域が、本質的に類似しているという安心の体験を与える得ことのできる自己対象を求めるそれ(双子あるいは分身転移)である」(268-9頁)。
・患者の防衛と抵抗について

攻撃性が子供時代に(たとえば、エディプス的な競争や同胞葛藤の文脈で)おこる場合、それは精神神経症の中核にはならない。一方、自己愛憤怒は、怒りをひきおこす人に対する対応が成功することによって満足されることはないー傷はなかなか消えず、怒りもそうである。それゆえ、自己の病理の発生に重要な役割を果たすのは、子供時代の(つまり、自己対象としての両親や同胞に対する)自己愛憤怒なのである(192頁)。

 要するに、後者は根に持ちやすいということですな。のみならず、エディプス的葛藤よりも、自己の障害の方が深刻だということになる。実際、その前の章ではこう述べられている。「もしエディプス神経症が自己の一つの特異な障害として、つまり、エディプス期という発達段階の間にその子供の環境の自己対象機能に欠陥があった結果生じた者として概念化されるなら、自己心理学のする特異な治療的接近がまたこうした障害の分析にも使用されるべきだ、ということにならないだろうか」(132頁)
 そこで最初にもどることになるが、「①欲求-活性化と、②欲求の不充足(「禁欲」)をとおしての適量の欲求不満と、③自己と自己対象の間の共感的つながりの確立による直接的欲求充足の置き換え」という三段階連鎖が指摘されることになる(149頁)。「適量の欲求不満と」いうのはウィニコットの「ほどよい母」を思い起こさせるものがあるが、コフートはこうした知見を精神分析的理論の拡大であると見ている。そして、精神分析による治癒が可能であるためには、被分析者はわれわれが自己対象転移とよぶ内的経験を動員することにより、分析者を自己対象とすることができなければならない」(104頁)。
 読みようによってはというか、コフート自身の言葉からも、コフート精神分析の現代版へのヴァージョン・アップを考えていたといえそうである。それは、エディプス期の評価を引き下げることになる。これは3冊読み進むほどその印象が強くなっていく。ラカン派なんかはコフートをどう評価するのだろう。
 

自己の治癒

自己の治癒

カーンバーグとの対比としてはこことか便利。
http://charm.at.webry.info/200705/article_12.html