自己の修復

 このあたりはいわゆるアイデンティティに関わる問題だと言ってよいと思うが、

さらに、自己が連続しているという感覚、つまり生涯を通してわれわれは同一の人間であるという感覚はーわれわれの身体と精神の変化、人格構造における変化、われわれが生活している環境の変化にもかかわらずー単に中核自己の構成要素の持続的内容と、それらの圧力と指導の結果として確立される活動性から生じるのではなくて、自己を構成する諸要素が互いに位置する持続的な特殊な関係からも生じる、といってよかろう(141-2頁)。

逆に、自己の障害は以下の二つの機会いずれにも失敗するときに生じる。
1、共感的に反応する融合的ー鏡映的ー承認的な自己-対象との関係を介して子供の凝集した誇大的-顕示的な自己の確立、
2、自分を理想化し融合することを許すし、またそのことを真から喜ぶような、共感的に反応する自己-対象との関係を介して子供の凝集的な理想化された親イマーゴの確立に関わっている
 もっぱら、前者で母親、後者で父親が念頭におかれているのだが、ふと漱石の『こころ』を思い出したりしている。つまり、この過程って、もともと単純にエディプス期までに完全に解決される問題ではなかったりしたのかもしれない。

 で、いわゆる従来の精神分析が問題にしてきたような神経症やエディプス期の位置づけが、コフートの自己の心理学とが対比される。

要約すると、(性的で破壊的な)イドと(抑制的-禁止的な)超自我は罪責人間の精神装置の構成要素である。中核的野心と理想は自己の二つの極であり、その間に緊張弓が張られ、それが悲劇的人間の営為の中心を形成する。エティプス・コンプレックスの葛藤的な局面は罪責人間の発達と精神神経症の発生の発生論的な焦点であり、エディプス・コンプレックスの非葛藤的な局面は悲劇人間の発達と自己の障害の発生の一つの段階である。精神装置心理学という概念は、構造神経症と罪責-うつ病をー要するに、罪責人間の精神障害と葛藤をー説明するのに適切である。自己の心理学は、断片化した自己(分裂病から自己愛パーソナリティ障害まで)と枯渇した自己(空虚性の抑うつ、つまり鏡映されなかった野心の世界、理想を欠いた世界)をー要するに悲劇人間の心的障害と苦闘をー説明するのに必要とされる(194頁)。

 そして、最後には「現代西洋人の精神的存続を最大の危険にさらす心理的脅威が変化している」として以下ののような指摘がなされていく。これ、いわゆる精神分析の凋落も含めて大きく重要な話だな。原著1977年か。
「子供たちは、以前は両親の情緒的(性愛的なものを含めて)生活によって過剰刺激されていたのに、今や子供たちは往々にして過小刺激しか与えられない」(215頁)。未解決な内的葛藤よりは、孤独や情緒的空虚感を和らげることが求められている。「エディプス病理をもつ例は現在あまり見られなくなっており、一方、自己の病理をもつ例に出会うことが次第に多くなっているという印象は、確固とした臨床経験にもとづいているように私には思われる」(220頁)。「要するに、私のいいたいことは、人の社会的環境におけるおのおのの変化が人間を新たな適応作業に直面させるということ、そして、新しい文明の夜明けといえるほど大規模な変化が人間に課する要求はとりわけ大きなものである、ということである」(221頁)
 

自己の修復

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