ポストプライバシー

 つめにきてこの本のおさらい。この本、とてもよい本だと思うのだけど、なぜか社会学業界でほとんど話題にならない。かつてなら自分の研究領域をはずれていても同じ業界で注目すべき業績が出ればまがりなりにも頁をめくってみたものだけれど、もうそんなことは過去の話になってしまったようだ。
 ポイントは、「プライバシーを個人の社会的な自己に関する情報の生産の問題としてとらえる」(21頁)ところ。プライバシーを守るものというところから、プライバシーを考えていくとそれは秘密であるとか隠匿されていくものだとかそちらの方に話が流れていきがちだが、プライバシーが侵害されるというところからみると、問題なのは、真偽はともかく、自分の個人的な事柄が自分の知らないところに流れ出して、自分がどんな人間か勝手にイメージが流布してしまうところにある(この仕事についてから少しばかりこのことを実感している)。

したがってここではそれが問題なのではなく、実在する個人のイメージを他人が勝手に物語的につくりあげてしまうことに問題の本質がある」(56頁)。

 そして、そのような意味でのプライバシーは自己の成り立ちに結びついている。個人とは常に首尾一貫しているわけじゃないし、一定の立場のもとで活動しているときには周囲の人には知られたくないような、恥ずかしいことをしていたりもするものである。つまり、プライバシーが保護されなければならないのは、自己が自己であるため、自己の尊厳が守られるためなのである*1
 ところが、いまやわれわれのプライバシーにたいする見方は変化を被りかけているように思われる。たとえば、プライバシーと引き換えに(どこまで当てになるかわからない)安心のために監視カメラに頼る人が増えている。われわれの個人情報を顧客情報として様々な企業が保持しているが、問題のなるのはそうした顧客情報の漏洩であって(OCNはひどい))、適切に顧客情報が管理されていれば、アマゾンのお薦め見たいに、むしろ、われわれの利便性が高まるし、必ずしもこれに違和感を覚えない人もいる。海外では、性犯罪者の再犯防止に個人情報が利用されていたりする。
 ところで、このときわれわれは、個人情報が集積したデータベースから、他人が勝手にわれわれのイメージを作りだしてしまっていることに抵抗感を抱かないのである。それどころか、「個人の自己は、情報システムに登録された個人データに基づいて構成され、それに依存して規定されるようになりつつある」(98頁)。「今日の情報化と同時に進行しているのは、私たちのアイデンティティの確定や確認を、データベースや情報システムに頼り、任せようとする傾向である」(101頁)。
 つまり、「他人が見ることと管理することとが別のことになったのである」(153頁)。

この新たなプライバシーは、もはや個々人そのものを聖域化するものではない。情報システムを聖域として保護する。したがって、人びとが自らのプライバシーを求めながら、同時に管理や監視を受け入れたとしても何ら不思議ではない。今度は個人自身ではなく、情報システムこそが、個々人の自己を保守するものだからである(199頁)。

 ひとつ疑問。じゃあ、このとき生身の身体をそなえて自己の方はどういうことになるんだろう?

ポスト・プライバシー (青弓社ライブラリー)

ポスト・プライバシー (青弓社ライブラリー)

*1:しかし、この国では犯罪容疑者にされるだけでプライバシーは奪われてしまう