というわけで、再訪*1。結局のところ、5章にはじまるプログラム化の話は、冒頭で自己言及と他者言及の相互調整と言われていた話につながっていくということでよいのかな。
まず、「マスマディアは人が前提とすることができるような背景のリアリティを作りだしてくれ、人はそれを下敷きにして出発し、自分の意見や将来の見通し、嗜好などの輪郭を描くことができるのである」(100頁)。「マスメディアがメディアであるのは、それをもとに人々がコミュニケーションにおいて前提にできるような背景知識を提供し、さらにそれを更新して書き込んでいくという点においてである。そこにある重要な区別は、知っている/知らないではなく、メディアと形式である」(101頁)。
で、「プログラムの領域は、背後にある日常文化を形成し、社会的なコミュニケーションの回帰性を常時再生産していくために、共同して作動する」(101頁)。さらに、「これらの領域をもつマスメディアが同時にいろいろな構造的カップリングを維持していて、それによってその他の機能システムへさまざまな依存を再生産していることが挙げられよう」(101頁)。
次に、個人の動機、つまりはコミュニケーションにおける個人の帰責をどう扱えばよいかに注目して「すべてのケースで、「相互浸透」ということが問題なのだ。つまり、社会的コミュニケーションの内部で個人の意識形成の複雑性を考慮に入れる可能性が問題なのである」(111頁)。とはいえ、
コミュニケーションに参加している個人は、何らかの方法で個人化されると同時に、脱個人化される、つまり画一化、あるいはフィクション化されるからである。それによって、コミュニケーションは、各個人がユニークで、オペレーションによって閉じたシステムとして成立している、ということに影響を及ぼすようなオペレーションに関連づけられないまま、それにもかかわらず個人というものには関連づけながらコミュニケーションを継続していることができるようになる(111頁)。
というわけで、マスマディアにしみれば「参加している個人が、その参加の意味を自分で決定し、選択肢、あるいは遮断することができるように選択されたスタンダード化だけで足りるのである」(112頁)。そして「マスメディア・システムにおいては、人間のそのような構築が、人間への奉仕という神話を再生産している」(113頁)。
個人にまでたどりついていないだけで監視社会の前触れのような話を考えればよいのかしら。番組を作りにあたっては、スタンダード化した受け手像を想定する必要があるし、これは視聴率調査等々である程度捕捉可能であろう。こうして更新されていく受け手像をベースにまた番組作りが進められる。だから、マスメディアはヴァーチャルな受け手像を構築しながら自己再生産をしていると。
この10章までが一つ目のリアリティの話だとすれば、11章はそれが二つ目のリアリティと交錯するあたりの話で、12章が二つ目のリアリティの話になるのかなと思ったら、それは15章に関連していて、12章以降はオペレーションの閉鎖性とそこから引き出される含意という話になるのだな。ひとまず、ここまで。
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引き続き、第11章
ここは言ってみればアーキテクチャの話をしているに等しいと考えればよいのだろうか?もうここは完全に抜き書きで。
まず、マスメディアというシステムは相互作用と同様、情報と伝達の差異が識別困難である。「一般的に見てどの要素が情報に属して、どの要素が伝達に属するのかを別々に仕分けすることは不可能なのだ。そのことは結局、先入観や意見操作が差し挟まれるという疑いがつねに再生産されているとしても、しかし、そういった疑念は、コミュニケーションにおいて綜合に分別することによって解消することは決してできない、ということを意味する」(116頁)。
こうしたマスメディアの一面性、伝えられない情報があるのではないかという問題は、モラルの問題を呼び寄せるが、「しかし、人はリアリティで欠如している分を、たとえそれが空想のものであろうとも、規範性において補うことはできない」(121頁)。「いずれにせよ、諸個人は、自分自身をコミュニケーションに参入させることを可能にするために、個人化され、個々の性癖に左右されている意識システムのオペレーションの様式にもかかわらず、経験の共通性を互いに仮定し合わなければならない」(120-1頁)。
ただ、「人は、おそらく、セカンド・オーダーの観察というモードが一般的に定着したということを語ることはできるだろう。人は、伝達されるすべてのものを、伝達した人との関連で解読する」(125-6頁)。「マスメディアのリアリアティとは、セカンド・オーダーの観察のリアリティである。それは、こうあるべきだ、とする知識を代替するものである。そのような知識とは、別の社会構成体においては、特権的な観察の場所をとおして調達されたものである」。「ここでも省察の形式として、セカンド・オーダーでの観察のみが残されている。すなわちそれは、自己観察をマスメディアの機能システムに任せる社会が、まさに観察者による観察という様式でこの観察方法に関わっていくという観察である」(127頁)。これは要するに、みんな足抜けはできないけど、マスメディアがどういうものかってことは、もうよく分かってるよねってことだな。
で、このような事態は「文化という概念」で総括できる。たとえば、「マスメディアによって知るものと、その現場でほんとうに見た(そして写真に撮った)ものとの間の差異、つまり遠隔ツーリズムとリアルなツーリズムとの差異の境界は、それ自体がマスメディアのプロダクトであり、そのためにマスメディアは文化の土台として自らの姿を現さないようにしている」(128頁)。
で、こうなるとわれわれの判断にはあらかじめ足枷がはめられていることになるわけで、「マスメディアが次から次へと続けてリアリティの構築を記述していくことによって、いまなお支配的となっている自由の理解を侵食していく」。「マスメディアによって与えられているリアリティの構築は、社会において自由として観察されるものは何か、そしてそれによってとりわけ社会において個人に関係付けられる行為のチャンスがどのように分配されているか、という問題に対して広範なる影響力を及ぼしている」(130頁)。
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あとはもういいかという感じなのだが、15章だけ少し。
マスメディアはマスメディア・システムと心的システムの構造的カップリングを容易にするための図式を提供していると。
そこで私たちは、マスメディアのコミュニケーションと心的に役立つ単純化との構造的カップリングがそうした図式を利用し、それどころか産出している。と推測する。このプロセスは循環している。マスマディアは分かりやすさに価値をおいている。この分かりやすさは図式を介してもっともよく保証されるが、図式はメディアそのものが最初に産出しておいたものなのである。マスメディアはその固有の営みのために心的な係留を利用しているが、この心的な係留とはマスメディアの描写を消費した帰結であると想定できる、それもさらなるテストがなくても想定できるものなのである(162-3頁)。
当然、個人はこうした図式にのることもできるし、そこから外れることもできる。
演劇と同じく、マスメディアもまた個人を演出の外側の場面に置く。私たちはそれをメディア・システムの分化の技術的条件としてきた。その距離は、個人には両義的に両義的に作用するに違いない。というのも、一方では、個人は彼らの前に供せられるテクストそのものではない。---。彼らはまたテレビで自分自身を見ることはない。---。他方では、マスメディアは諸個人がそこにいるとわかっている世界を生産している。---。自分たちに見せられているものについては、誰もが当事者である。---。もし諸個人がメディアをテクストや映像として見なすならば、彼らは外部にいることになる。もし彼らが自分自身の内部でその結果を体験するならば、彼らは内部にいることになる(170頁)。
これは、セカンド・オーダーの観察という話から続く、12章の次のような指摘の言い換えと考えてよいのかな。「この考察においておそらく最も重要な結論は、マスメディアはリアリティを生み出すにしても、それは同意を義務とするリアリティを生み出すのではない、ということだろう」(136頁)。
合意を義務としない、個人個人によって切り取ることができる世界というものを区別することが、この問題の三番目の解決法であろう。そして、これこそが、マスメディアが提供し、普及させている解決法であるようだ。そして、これこそが、マスメディアが提供し、普及させている解決法であるようだ。人はリアリティに対してとる自らの立場の固有な様式だけを受け入れ、区別できればいいのである。また、人はそれが一般的に有効で、リアリティそのものであると受け取ってしまうことにないように気をつけていればいい。つまり、自分がコミュニケーションに参加する時に、この差異に順応できるようでなければならない。人は、他人と二つのレベルで同時に考え、またはコミュニケーションできるようでなければならない(139頁)。
大して読めなかったが、これで週末だけは集中読書月間も終わりかな。次はこの間書き散らしたメモをどうするかなのだが---。
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しかし、圧勝というだけでなく投票率もわりと高いな。
市長選が前回を17・31ポイント上回る60・92%。知事選は3・93ポイント上回る52・88%。支持層とか政策の認知度とか、どんな分析が出てくるのかしら。これまでもこれからも、すでに敵が名指されている(こういうやり方って民主的じゃないと思うけど)。どんな嵐が吹くのか、吹かないのやら---。
http://www.sanspo.com/shakai/news/111127/sha1111272256006-n1.htm